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アユルものがたり『那須のくにのおはなし』出版記念対談

対 談「那須の国」を語る(Vol.3)

那珂川町のあらまし
馬頭広重美術館

馬頭広重美術館

 平成17年10月に馬頭町と小川町が合併して誕生した那珂川町は、関東の四万十川と謳われ、鮎釣りのメッカとしてその名を町名に冠した清流那珂川が町の中央を流れ、緑豊かな山々と清らかな水に抱かれた美しい町です。
 また、町内には歴史文化を伝える遺産が数多く残されており、温泉や伝統工芸の小砂(こいさご)焼、広重美術館をはじめとする三つ美術館など観光資源にも恵まれ、八溝そばや野生のイノシシ肉「八溝ししまる」、温泉を利用して養殖した「温泉とらふぐ」などの新しい特産品も生まれてきております。
 これらの歴史、伝統、文化、風土を大切にしながら、町民と行政が一体となった「町民参加のまちづくり」を目指していきたいと考えています。(那珂川町 大金 伊一町長)

タイトルアイコン−「アユルものがたりー那須のくにのおはなし」発刊記念対談 −

那珂川町・大金伊一町長 × 烏山和紙会館館長・福田弘平氏
■小砂焼きの煉瓦が銀座の舗道に
大金伊一町長

大金伊一町長

福田弘平氏

福田弘平氏

大金 この町は縄文時代から栄えていました。やはり那珂川があったからだと思います。『アユルものがたり』のなかで、武茂川で金(砂金)が採れる話しが出てきます。金が健武、荒沢、大山田、大内地区で採れましたが、日本最古の金山と言われています。実際に、奈良時代、那珂川町で採掘された金が、奈良の大仏造営のときに塗金として使われたようです。

福田 そのことは文献に記されていますね。那珂川町には那須官衙跡があり、那須国の中心地でした。奈良時代ですから、東山道で奈良に金を運んだのでしょう。那須官衙から奈良まで直線道路でつながっていました。

大金 いまも、金を掘った穴がいくつも残っています。ただ、土質、岩質が安定していませんので安全面から、一般に見学していだくというわけにはいきません。

福田 いまは閉鎖されているけれど、かつて金山があったところで、金山から湧き出る水は美味しいということをアピールしていくと面白いかもしれませんね。

大金 確かに美味しい水がこんこんと湧き出ています。春と秋に地域の方々がお祭りを開いていますので、そういうときに、何か、金にまつわるストーリーをつくっていただき、集落の活性化につなげていければいいかもしれませんね。
 小砂焼きは、水戸藩の御用達だったんですね。黒船が来航したときに、それに対抗するために大砲をつくらなければならなかった。大砲の砲身を鋳造する反射炉を作るために煉瓦が必要でしたが、小砂の粘度が煉瓦をつくるのにちょうど良かったということです。小砂から粘度を持って行って煉瓦をつくり、その煉瓦で反射炉をつくったようです。

福田 大砲の鋳型を作るのに、小砂の土が一番適していた。どうしてもここの土を確保して置かなければならなかったということらしいです。

大金 焼き物も同時に焼いていたようです。水戸藩には、3つしか窯元がなかったんです。小砂のほかに町田焼きの常陸太田市、もうひとつは、七面焼きの窯元が水戸市の千波湖の近くにありました。その2つは、もうなくなってしまい、現存しているのは小砂焼きだけなんです。いま、小砂焼きの窯元は7軒です。江戸時代には14、5軒あったようです。

福田 那珂川町の歴史遺産のひとつとして、私が紹介したいと思っていることは、明治時代、小砂で作られた煉瓦が、東京・銀座の舗道の敷石に使われていたということです。小砂焼きは、煉瓦づくりが始まりでした。関東大震災で大きな被害を受けた銀座の街の補修作業の際、不要になった敷石の煉瓦を譲り受けて舗道を造ったところが日本有数の商店街である「戸越銀座」です。戸越銀座は、日本中至るところにある「銀座」の名のつく商店街の中で、最初に「銀座」の名を冠した商店街と言われています。戸越以外にも、本家の銀座の煉瓦を譲り受けて敷石にした商店街が、銀座という名前が付けるようになったということです。これは、おもしろい話しです。戸越銀座には、当時譲り受けた煉瓦が展示されているそうです。

■『アユルものがたり』そのものが、この町の物語です

福田 『アユルものがたり』は、那珂川流域で一番栄えた、この地方が「まほろば」であるというお話です。生活が一番しやすい場所、しあわせになれる場所が「まほろば」であると、この絵本は言っています。

大金 それが、この地なんですね。『アユルものがたり』で描かれているとおりに、渡来人がこの地に入ってきたんですね。中国や朝鮮から来たのでしょう。

福田 朝鮮から来た人たちは泰人(たいびと)と呼ばれ、ものづくりに長けていました。中国からは漢人(あやびと)と呼ばれる人たちが入ってきて、政治、経済、文化を伝えました。そのことがよくわかるのが、大田原市の笠石神社に残されている那須国造碑です。碑に刻まれている文字にしても、文句にしても、素晴らしい。やはり、素晴らしい人間が書いているなと思います。中国の年号が書かれているので、間違いなく中国からの渡来人です。
 大和朝廷自体がこの地域を開発するために渡来人を那珂川から入れている。というのは、那須から北は蝦夷ですから、蝦夷征伐するためにも、この地域を開発しなければならなかったのです。そのために中国、朝鮮からの渡来人を入れている。

大金 そのようなことで、この地域に文化が花開いたんでしょうね。
 ここは、元々は佐竹藩だったところです。那須烏山市は烏山藩でした。関ヶ原の戦いで徳川家康と石田光成が戦いましたが、佐竹藩はどちらかというと中立の立場でしたので、徳川側が勝ったことによって佐竹氏は秋田のほうに移封されてしまいました。そのあと、徳川家、水戸藩の領地になりました。水戸光圀さんは、この地に9回も来ています。光圀は文化人で大田原市湯津上の国指定史跡「侍塚古墳」を発掘しています。小口に泊まって、発掘の指導などをしていたようです。

福田 栃木県北部に降る雨の3分の2は那珂川水系に流れ込んでくるのですから、この地は水が豊かなのです。将来、渇水の不安もなく豊かに住み続けられます。

大金 清流ですしね。鮎をはじめ、いろいろな魚が上がってきます。鮭も上がってきます。産卵するんです。

福田 那珂川の豊かな恵みのなかで、那須国が誕生し、その後、煉瓦の話しもそうですが、古代から近代へと文化がつながってきているんですね。そして広重美術館という海外からも注目されているすばらしい美術館が那珂川町にできました。

大金 この美術館は、寄贈された広重の版画を中心に4200点所蔵しています。版画と肉筆画があります。肉筆画は「天童もの」といって山形の天童藩に依頼されて広重が描いたものです。広重の肉筆画の所蔵数では、日本有数の美術館です。建物も世界的な建築家の隈研吾さんが設計しました。地元の八溝杉を使っています。ここでよく撮影会も行われます。
 ほかにも、創建807年と言われている鷲子山上神社などいろいろな文化財がありますし、温泉もあります。温泉から眺める夕日はとてもきれいです。ぜひ、みなさんに見ていただきたいですね。
 『アユルものがたり』に描かれたものそのものが、この町の物語です。那珂川町にとって貴重な絵本です。

福田 ぜひ、多くの方々に読んでいただければと思っています。きょうは、ありがとうございました。

(構成:ビオス編集室)

那珂川町・大金伊一町長


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対 談「那須の国」を語る

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