ピックアップインドネシアの海精神科医のニア・ミスとっておきの一冊伝統と文化−下野手仕事会−栃木のステキ美術館だより地域レポート遥かなる戦争と遠ざかる昭和おもしろ日本美術3アユルものがたり―那須のくにのおはなし―
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精神科医のニア・ミス

「精神科医のニア・ミス」第四十二回

幅22p奥行13p高さ59pの墓

〜わらび座の「源内」と「医は仁術展」の直武〜

わらび座のポスター

わらび座のポスター

五井家(角館の古い商家)

五井家(角館の古い商家)

解体新書(角館伝承館蔵)

解体新書(角館伝承館蔵)

 「なにしろ医者が人間の中身を全く知らずにいたんだからね。それが、刑死した罪人を腑分け(解剖)してみたらターヘルの西洋人と同じだったとさ」
 秋田県仙北市のわらび座劇場で上演中のミュージカル「直武を育てた男・源内」(4月〜来年1月)の主役、怪しげなエレキテル男、平賀源内の科白である。形式より実を取る老中・田沼意次の開放的な一時期、解剖も許可され、現場を見た杉田玄白、前野良沢らは、ドイツ人クルムスが1722年に発刊したターヘル(図)・アナトミア(解剖)の挿絵の正確さに驚き、蘭和辞書もない時代に無謀ともいえる翻訳に着手する。
 そのころ秋田藩に鉱山の仕事で招かれた源内は角館の五井家で小田野直武の画才を見出し、1773年に江戸へ呼ぶ。玄白らの困難を極めた翻訳も終盤で、直武の挿絵模写により日本初の解剖書「解体新書」は原著発刊から50年後に完成した。
 やがて、西洋画に夢中だった直武に秋田へ戻れと藩命が届く。源内はいう。「秋田を蘭画の総本山にせよ。あの北国で西洋文化が栄えるなんてオツじゃないか」。帰った直武は藩主佐竹曙山の絵の指南役となり、北家(角館)の佐竹義躬(直属の殿)らと秋田蘭画を興す。
 日本の医療史を詳細に展示した「医は仁術展」(国立科学博物館、3月〜6月)では解体新書の説明に直武の名がなかった。私の学生時代の教科書「レジェールの外科診断学」は、外傷・疾患と処置を説明する挿絵が人気だった。解体新書も文章より絵が魅力だったはず。なのに直武の名がない。
 だが身分制度が厳しい時代。ミュージカルでは親友だった玄白も実際は下級武士の直武を低く見ていたフシがあり、殿の道楽相手が身分の低い直武では藩の重役らも苦々しかったに違いない。解体新書や秋田蘭画に寄与しながら32歳で謎の死を遂げた直武。その不遇は「医は仁術展」にまで連なったか。
 パリ大学でレジェール教授門下だった森岡恭彦先生(昭和天皇の執刀医)と角館松庵寺に酒2升箱サイズの直武の墓を訪ねたことがある。その時の先生のつぶやきが忘れられない。「いい仕事したのに、ちっこい墓だね。かわいそうに」


直武の墓(左)絶学源真

直武の墓(左)絶学源真

直武の墓石を撮影する恩師之図

直武の墓石を撮影する恩師之図

わらび座 杉田玄白と筆者

わらび座 杉田玄白と筆者


尾根白弾峰
尾根白弾峰(佐々木 康雄)
  • 旧・大内町出身 本荘高校卒
  • 1980年 自治医大卒
  • 秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務
平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)
平成16年〜20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長


プロフィール

 1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。
 ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。
 80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。
 81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。
 93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。
 地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。
 主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。
 医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。


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