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精神科医のニア・ミス

「精神科医のニア・ミス」第五十九回

『秋田の行事』 〜約束を守る、守らない…〜

平野美術館(旧県立美術館)今後の用途を巡って混迷中

平野美術館(旧県立美術館)今後の用途を巡って混迷中

安藤忠雄氏設計の新秋田県立美術館

安藤忠雄氏設計の新秋田県立美術館

 本物の芸術を秋田の子供たちに―。秋田市のにぎわい交流館で上演中のわらび座(本拠地は秋田県旧田沢湖町)ミュージカル「藤田と政吉」に何度も出てくるセリフである。戦前の秋田の大地主で、途方もない金持ちだった平野政吉は、東京の絵画展で藤田嗣治と出会う。芸術に造詣が深かった彼は、パリではすでに著名な画家だったが、日本では無名に近かった藤田の才能に惚れ、2人の交流が始まった。
 やがて政吉は秋田に藤田を招き、秋田の四季を壁画にしてほしい、展示のために美術館も建てると制作を依頼する。1937年、藤田は縦3.65米、高さ20.5米の「秋田の四季(行事)」を174時間で仕上げた。感動した政吉は藤田と約束した「天井から自然の光が入る礼拝堂のような美術館」を設計する。だが日米開戦で延期。そして1967年5月5日子供の日、「秋田の子供たちに」という約束を守り平野美術館は開館した。
 話は変わる。札幌市郊外のモエレ沼公園は、ゴミ捨て場だった広大な土地に建築家イサム・ノグチが1988年に設計した。ところが着工直前に彼は急逝してしまう。困った関係者らが相談した建築家の安藤忠雄氏は、「プランを立てたイサムがいなくなったのだからやめるのは当然」と中止を勧告。だが、「目的は子供…子供たちで賑わっているのが公園本来の姿」というイサムの考えを札幌市は守り、2005年のオープンにこぎつけた。ケガをしないよう水遊び場の砂に古いサンゴを用いるなどきめ細かい配慮は亡きイサムとの約束だった。(イサム・ノグチとモエレ沼公園 学芸出版社2013年)
 「秋田の行事」が2年前に引っ越した先の新県立美術館は、自然採光、絵と建物が一体となった礼拝堂のような空間、という藤田と政吉の約束からやや遠い。「目的は子供」という点からも新美術館周辺の広場の殺伐さは、結果的に約束を反故にした。モエレ計画に反対した人の設計に、「話がちがう」と壁画はお堀の向こうを見やりながらたぶん怒っている。美術館の外壁に「秋田の行事」の巨大レプリカを据えて子供たちを驚かしてやるのが、せめてもの罪滅ぼしかもしれない。


藤田嗣治の胸像

藤田嗣治の胸像

平野政吉の胸像

平野政吉の胸像

平野美術館にあったこころの「秋田の行事」

平野美術館にあったこころの「秋田の行事」


尾根白弾峰
尾根白弾峰(佐々木 康雄)
  • 旧・大内町出身 本荘高校卒
  • 1980年 自治医大卒
  • 秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務
平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)
平成16年〜20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長


プロフィール

 1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。
 ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。
 80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。
 81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。
 93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。
 地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。
 主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。
 医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。


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