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精神科医のニア・ミス

「精神科医のニア・ミス」第六十五回

ワッツァネイム? 〜ジョン万次郎の英語と男鹿の神様〜

B29遭難慰霊碑(男鹿半島真山は自衛隊レーダー基地でもある)

B29遭難慰霊碑
(男鹿半島真山は自衛隊レーダー基地でもある)

鹿嶋幸治先生 H12年9月 現役引退記念写真(手前の眼鏡のじいさん)

鹿嶋幸治先生 H12年9月 現役引退記念写真
(手前の眼鏡のじいさん)

 終戦直後の昭和20(1945)年8月28日、米空軍B29が秋田県大館の花岡にあった米軍捕虜収容所へ食料投下のため飛来し、「なまはげ」の地、男鹿半島の真山に激突炎上した。付近住民が駆けつけ生存者1名を発見したが、言葉が通じない。「北浦のあの若者なら頭もいいし医者の学校に行っている」ということで呼ばれたのが、当時19歳の鹿嶋幸治先生である。
 鹿嶋先生は晩年まで地域医療に尽力され、「男鹿の神様」と住民に慕われた。墜落現場に呼ばれた逸話も半島では有名で、現在、私が編集長をしている「男鹿潟上南秋医師会報」も昭和63年に先生が創刊された。平成12年師走に急逝される少し前の編集会議で、「墜落現場でどんな英語を話したのですか」と尋ねたら先生は一言、「ワッツァネイム?」
 今「ジョン万次郎の英語」という本が話題である。4年後の東京五輪に向けた英会話本だが、ローマ字読みで英語教育を受けた私の世代の英語とはかなり違う。私は水を「ウオーター」と学んだが、米国人に囲まれ耳で覚えた万次郎の英語では「ワラ」、同じく「イコール」も万次郎では「イークワリィ」である。しかも私の習った英国英語と今の米語の発音はとても同じ英語とは思えない。
 40年前、米ニュージャージー州でアイスクリーム屋に寄ってそれを思い知らされた。店には7種類のアイスクリームしかなかった。私が「バニラ」と注文すると「ワッ?」という。何度か繰り返したが、店主は面倒になったのか指差せという仕種をする。だが商品は僅か7つ。こっちもヒマだ。「バニラ、バニラ」と粘ったらやっと「ビャニーラ?」と笑顔を見せた。
 ある恩師は国の給費留学生としてパリ大学で研究していたころ、仕事でうまくいかないことがあって落ち込んでいたら「ぼんくら!」と友人のフランス人医師にいわれ肩を落としたという。ボン・クラージュ、がんばれといった意味だと分かって安堵したそうだが、発音問題はことほど左様に厄介である。
 平成2年5月、B29墜落で唯一生き残って「ワッツァネーム?」と鹿嶋先生に問われたノーマン・H・マーチン氏が男鹿を訪れた。そして亡くなった米兵11名のため現場付近に慰霊碑を建立した。再会した2人の会話の様子は、残念ながら共に草葉の陰におられ、今となっては推し量る術もない。


尾根白弾峰
尾根白弾峰(佐々木 康雄)
  • 旧・大内町出身 本荘高校卒
  • 1980年 自治医大卒
  • 秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務
平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)
平成16年〜20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長


プロフィール

 1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。
 ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。
 80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。
 81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。
 93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。
 地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。
 主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。
 医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。


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