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おもしろ日本美術タイトル

おもしろ日本美術2 第三回

タイトルアイコンヨーロッパを魅了した「KAKIEMON」の逸品2

色絵鳳凰文十角八寸皿

柿右衛門色絵鳳凰文十角皿

柿右衛門色絵鳳凰文十角皿

サンプソン窯の倣製品

サンプソン窯の倣製品

 「柿右衛門」は、いわばブランド名。あくまで工房制、分業制による窯総体が生み出した産物であり、現代の人間国宝酒井田柿右衛門が、「柿右衛門製陶技術保存会」の代表(窯主)であるとともに、一人のアーティスト(主作品は濁手素地)でもあることは、明治以降ならではの話である。かつては、窯主はオーナー兼ディレクターとしてあり、実際の作業は、家内工業制よろしく、磁土精製・ろくろ・型打ち成形・窯焚き焼成・絵付けなど細かく手分けし専門性を高めたその総力が結実したものであった。寛文2年(1662)のオランダ東印度会社の38000個の大量注文を有田磁器業界が短期間にこなせたのもそうした高度な分業システムの勝利である。

 初代柿右衛門(はじめ喜三右衛門、1596〜1666)は、寛文元年(1660)年木山から移って南川原山に窯を築き、ご下命を受け藩御用の中心的存在となり、准御用窯の別格扱いが続いたと思われる。赤絵始まりの記「覚」あるもまずは明末赤絵風古九谷様式、初期輸出期色絵類と展開。濁手素地の色絵(清朝赤絵風)は、彼の最晩年に当たる頃に始まり、17世紀末の延宝期に黄金期を迎える。そして、後にきらびやかな「金襴手」に人気が移り、また本場中国景徳鎮の窯業復活がなって輸出が思わしくなる享保の頃まで続く。

マイセン黄地窓絵壷

マイセン黄地窓絵壷

 「典型的柿右衛門様式」と呼ぶ完成度の高い盛期の上手物のその制作の担い手はと探ると、柿右衛門代々の歳回りからして、五代目(1660〜1691)がその晩年にたずさわったかとの程度で、むしろ延宝5年(1677)西本願寺転輪蔵内腰壁陶板に名を留める土岐源三衛門(二代柿右衛門を看取り、三代の墓碑施主)を主たる指揮者として注目すべきかも知れない。また、いま一人、高台内に[柿]銘を記す「元禄柿」の絵師も、幼い七代目が成長するまでのあいだ名代を勤めたものとして、その実質窯主たる中核的な存在であったものと思われる。元禄六年(1693)藩窯の組織改編(指令書「手頭」が残る)に当たっては、窯主代行として対応してか、「柿鍋手」なる藩窯鍋島焼に近いものが伝世する。

 本品は、やはりヨーロッパの地で人気を博し好んで倣製された、梅竹に二羽の鳳凰を描く色絵十角皿で、鐔縁の唐花唐草文のあしらいも華麗である。縁周りの錆釉も全体を引き締めて好ましい。型打成形の技術もレベルが高く、濁手の色合いもやや白味が勝ち表面はあくまでも平滑で傷や汚れも少なく円熟の極みにある。マイセンの倣製品のほか、フランスのサンプソン窯の直模品も知られている。

上野 憲示
上野 憲示

1948年、大阪生まれ。

東京大学文学部美術史学科卒業。栃木県立美術館学芸員。東京大学、清泉女子大学などの非常勤講師(美術史学・博物館学担当)を経て、現在、文星芸術大学学長ならびに芸術理論専攻教授。

著書に『鳥獣人物戯画(日本絵巻大成六)』(中央公論社)、『渡辺崋山の写生帖』(グラフィック社)、『ハイビジョン鳥獣人物戯画』(ハイビジョンミュージアム推進協議会)、おもしろ日本美術1(文星芸術大学出版)など、美術史家、美術評論家として活躍。


おもしろ日本美術3バックナンバー
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