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おもしろ日本美術3

おもしろ日本美術3 第一回

渡辺崋山新論(1)

―克己の人渡辺崋山―

崋山肖像 渡辺崋山像(椿椿山筆、部分)

崋山肖像 渡辺崋山像(椿椿山筆、部分)

崋山少年立志像の写真

崋山少年立志像の写真

 幕末の偉大な思想家・文人画家渡辺崋山(1793〜1841)の生涯は、その人生観、生き方の面においても人の鑑となるものである。貧乏藩三河田原藩の下級武士の子として江戸(三宅坂の田原藩上屋敷の長屋)に生まれ、主君への忠義、年老いた親への孝養、弟妹たちの養育といった窮乏辛苦の中、終始、自らに厳しく、また弟子や周囲にも精進と克己を説く人であった。
 かつての修身の教科書には、崋山が十二歳の頃、同じ年格好の備前池田侯の若君の行列の先供にあたって打ちのめされた悔しい体験を契機として、精進し偉大な人物となったと紹介。同様に、晩年、蛮社の獄で罪に落ち国元田原蟄居との苦汁の時も、神が与えてくれた、煩わしさから解放の自由の刻、と自らに言いきかせ、作画三昧に没頭の好機としたが、まさしく災難を己の伸長のバネとするその心の持ち様、気持ちの切り替えは今日でも大切な処世訓であろう。
 また、崋山は、徹底した自己管理に努めている。十八歳の時、寅の刻(午前四時)に起き、丑の刻(午前二時)に寝るという超人的な日課を定めて日々実行。三十歳で結婚すると、今度は、親の孝養に始まり、「学問をして遠く慮り画をかきて急を救ふ事、書物は経書、画書此外不可見事」等々と続く日課六条「心の掟」を定め、さらに三十六歳の年初には、過酷な時間割「日省課目」を定めて自らを鞭打っている。人間、明日の栄光、飛躍のためには、安易な方向に流れず、厳しい今に正しく面対し、足を踏ん張り歯をくいしばって果敢に立ち向かっていく気概を望まれる。「農夫が田を耕すごとし、一日画をかかざれば一日の困窮を増す。」との一流の絵師を目指しての独白も印象的である。
 なお、藩譜編纂の調査等、何度か旅行の機会を得ている崋山。人づきあいの極意というか、「此里にわれにひとしき人あれば迎ひてひと夜語りあかさまほしく思ふなり。物読む人か手など書人か、歌はいかい詩など好める人か、詩はなし好る人か、いづれ話をきかまほしく思ふまゝに呼びたまはれ。」と大口上を発し、積極的に土地の名士・文化人との交流を求めて、俳句・狂歌や座敷芸などの素養をベースに豊かな社交性を発揮し、いかにもホットな心の触れ合いを得ている。これも、大いに見習うべき積極姿勢であろう。
 そして、崋山は、晩年の天保10年(1839)、蘭学者取り締まりの疑獄事件で逮捕・入牢(「蛮社の獄」)、死一等減じて国元三河渥美半島の田原蟄居となったが、その最期たるは、天保十二年の十月(四十九歳)、国元謹慎中に売画を策したとのうわさから、藩主に迷惑が及ぶことを恐れての、覚悟の上の自殺、納屋で自ら命を絶つという壮絶なものであった。罪人石碑相成ざるべしとして、「不忠不孝渡辺登」と認めた嗚咽に似た決意の自書が涙を誘う。
 以上、断片的ながらも、克己のひと渡辺崋山の鮮烈な生きざまの一端の紹介をもって”渡辺崋山論”の導入としたい。
(文星芸術大学 上野 憲示)


上野 憲示
上野 憲示

1948年、大阪生まれ。

東京大学文学部美術史学科卒業。栃木県立美術館学芸員。東京大学、清泉女子大学などの非常勤講師(美術史学・博物館学担当)を経て、現在、文星芸術大学学長ならびに芸術理論専攻教授。

著書に『鳥獣人物戯画(日本絵巻大成六)』(中央公論社)、『渡辺崋山の写生帖』(グラフィック社)、『ハイビジョン鳥獣人物戯画』(ハイビジョンミュージアム推進協議会)、おもしろ日本美術1(文星芸術大学出版)など、美術史家、美術評論家として活躍。


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