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おもしろ日本美術3

おもしろ日本美術3 第二回

衝撃的なその最期

―杞憂を以て死した崋山先生―

崋山七大文字遺書

崋山七大文字遺書

 渡辺崋山先生は、その最晩年、国元田原蟄居という立場を案じつつも、達観の境地というべき、半ば居直りに似た芸術至高的信念で絵画制作に自らを没頭させている。残された書簡類には、「画キ候ものハよけれとも、求二応する事ハ其心違ひにて、親類共ヤカマシク申候。・・・それ故毎日ビクビク致居候。」(鈴木与兵衛宛天保十二年四月二十六日付書簡)等と、その複雑な心中を覗かせている。
 そんな崋山先生が絶えず危惧していたのは、まさに「主人安危にもかゝはる」、武士として忠孝にそむいたあるまじき事態となることであった。「某氏、隠居にて画もかかれ候や、年号を替えしたため候よし」との風評が洩れ伝わる中、老中水野忠邦の用人小田切要助の浜松派遣を自らの身辺調査と判断して、ことのほか狼狽し(半香宛「火中書」の文面に顕著)、師松崎慊堂の「崋山は杷憂を以て罪にかかり、また杷憂を以て死す」との言葉通り、「もののふ」たる気概と「士大夫」然とした誇りを胸に、ここに進退窮まれりと自ら命を絶ってしまったのである。
 友信老公の述懐の記や、滝沢馬琴の「猶其の侭にてあるは、主君の為にあしかるべしと言いきかせし者あり」(『著作堂雑記』)との表現に、崋山先生をよく思わない一派の謀略と取る向きもある。が、三宅家譜撰集拝命や、海防掛、老公の嫡子㐰太郎君の傳役等の就任、そして蟄居中の破格の厚待遇等々、その晩年は藩主康直公の高配をはじめ、友信公との交誼、真木定前ら後輩藩士の表敬など、思いのほか温かい善意に囲まれての生活であり、ここは周りの善意の諌言や忠告の交錯した中での、情報の誤認に発した杷憂の為せるところとみるべきであろう。
 そこで、崋山先生が最も危惧した主君へ累が及ぶことの中身であるが、私は、単純に「罪一等減じて国元預かりとなった罪人の監督不行届き」という咎に留まるとは見ていない。すなわち、「罪人に内々公命を発して、藩の借財の代価に当てる絵を描かせた」主君自身の罪科という秘事があって、その発覚の危惧が崋山先生を狼狽させたと考えたいのである。田原の方々からは、お叱りを頂戴しかねないが、名作「猛虎図」が、債権者三河の前芝村の豪農加藤廣正(六蔵、加藤清正の子孫)の希望を受け、「崋山君命(康直侯)をもって・・・」(石川鴻斎記)描かれたものであり、耕織図対幅のことに触れた四月二十九日付(天保十二年)の書簡中、その揮毫の遅滞を詫びる言い訳の「申上兼候主用ニ而」こそが、蟄居中の罪人崋山に対する、借財弁済のための絵画制作(必ずしも「猛虎図」というわけではないが)という世にはばかれる公命と理解したいのである。さらに同書簡の「死罪拝」等の言い回しや、忠孝の精神を子に諭したものとしては、少々焦点がずれた感のする長男立宛の遺書の「二君に仕ふべからず」との文面等、いくつか脈絡を繋いでいくことでこの感を強くするのである。
 なお、崋山先生自刃の後、藩主に咎はなく、逆に奏者番拝命など崋山先生の悲痛な決意が実り、まさしく死して忠義を果たしたのであった。
(文星芸術大学 上野 憲示)
  • 倅立宛崋山遺書

    倅立宛崋山遺書


上野 憲示
上野 憲示

1948年、大阪生まれ。

東京大学文学部美術史学科卒業。栃木県立美術館学芸員。東京大学、清泉女子大学などの非常勤講師(美術史学・博物館学担当)を経て、現在、文星芸術大学理事長。同大学学長ならびに芸術理論専攻教授。

著書に『鳥獣人物戯画(日本絵巻大成六)』(中央公論社)、『渡辺崋山の写生帖』(グラフィック社)、『ハイビジョン鳥獣人物戯画』(ハイビジョンミュージアム推進協議会)、おもしろ日本美術1(文星芸術大学出版)など、美術史家、美術評論家として活躍。


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