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巴里通信は、パリからヨーロッパのアートシーンをコラム形式でお届けします。

tomoko写真

画家
TOMOKO K.OBER
トモコ カー.オベール

VOL.12

松谷武判 Takesada Matsutani
- 画家 -


「100年単位で思考する」世界

アトリエで。松谷氏アトリエで。松谷氏

パリ11区のメトロ、シャロンヌの近くにある松谷武判氏のアトリエを訪ねた。20世紀前半頃まで、この辺りは木工.家具屋の仕事場が集中していて、貴族やブルジョワ達のご用達で栄えた地域である。彼のアトリエもかつての仕事場跡で、建物全体が数人のアーティストたちのアトリエになっている。パリの各区に何箇所も同様の建物があり、ア−トを担う人たちを特別に保護している。
 広くて明るく静かなアトリエで、彼は少しヨレヨレのエプロン姿で作業をしていた。取材し入ると、いつもの人懐っこい笑顔となり、彼がここまで制作してきた過程と彼の心情に触れることができた。


■世界をあっと言わせた日本の現代アート

松谷氏とトモコ・K・オベール松谷氏とトモコ・K・オベール Photo by Hiroko HORI 「作品」「作品」Photo by Hiroko HORI

「絵は子どものころから好きでしたが、病状が繰り返し悪くなり、亡くなった母が随分心配しました」。1937年、大阪生まれ。大阪市立工芸高校日本画科に入学、2年後、結核のために中退した。
 「やっと身体ができたのが20歳頃でした。その当時、芦屋に『具体』(戦前から活躍していた前衛画家、吉原治良を中心とした団体)というおもしろそうな団体があるのを知り、参加しました」
 日本画から「具体」への移行は、新たなエネルギーを求めていたからと話す。
 「吉原さんに厳しい要求を求められました。理屈をいわんと、誰もせんこと、新しいことをやれ、と。独自性をもってして何処からでも、何からでもやれ、と。それではと、誰も使っていない材料、ビニ−ル系接着剤を使い作品をつくったのが始まりです」。
 吉原氏と周囲のアーティストは「具体」の第1期。パ−フォマンス、インスタレーションが中心であった。それらの作品はフランスの批評家ミシェル・タピによって高く評価された。その後の若い世代、60年以降が第2期。光や動きを採り入れたライトア−トやキネティックアートへと向かった。
 「僕は最後からきた一番若いメンバ−。彼らの個展に世界中の現代ア−トの蒼々たる作家やコレクターが見にきました。例えば、ジャスパー・ジョーンズ、サム・フランシス、イサム.・ノグチ、ジョン.・ケ−ジ、ペギ―.・グゲンハイムたちで、世界をあっと言わせた日本の現代ア−トの最高潮を築きました」


■良き時代のパリ

Photo by Hiroko HORI 「作品」「作品」Photo by Hiroko HORI Photo by Hiroko HORI 「作品」

「作品」Photo by Hiroko HORI

「パリへ吉原先生からの藤田嗣治画伯宛の紹介状を大事に持ってきたのですが、藤田さんは入院されてその後亡くなりました。結局、お会いできなかったので残念でした。ランスの礼拝堂の完成後でした」
 66年に松谷氏はフランス政府選抜留学「第1回毎日美術コンク−ル留学賞」を受賞しパリへ留学したが、当時の氏はニューヨークに関心があったという。
 「パリに来て本当に良かった。歴史のある街で仕事ができた。もう45年になります。当事はフランス語はゼロでしたから初歩から勉強しました。語学学校の試験は答案を書くのが大変でした。試験に受かった時友人たちは誰も信用しなかったんですよ(笑)。その頃トロカデロにあった日本大使館に、新年のお祝いに招待されては飲み食いできた良き時代でした。本代、生活費等は保障されていて、6ヶ月間の留学はすぐ経ってしまいました」
 その後、生活の為にレストランの皿洗いなどをしてパリに在住。今は日本レストランが何十軒とあるが、「あの頃はたった四軒だけ」と、留学当時のパリを懐かしく振りかえる。
 「家屋のペンキ塗りも良くやりましたが、日本人は器用だし、画家だからお手のものでしたよ。その間、エジプト、ギリシャ、イタリア等を訪ね、歴史を遡り、自分の目と皮膚で感じてきました」。
 69年からスタンレー・ウイリアム・ヘイター(Stanley William HAYTER)の版画工房アトリエ.17に入門する。「彼に助手をやれといわれて務めました。僕は昔、大阪でヘイターさんの作品を見て覚えていましたよ」
 松谷氏はその後、69年代にオ−ストリア、カナダ、75年代にポ−ランド、スコットランド等の国際版画展で入賞している。


■社会の人々を感動させる

Photo by Hiroko HORI 「作品」

「作品」Photo by Hiroko HORI

Photo by Hiroko HORI 「作品」

「作品」Photo by Hiroko HORI

約6年後、ヘイター版画工房を離れモンパルナスにシルクスクリーン版画工房を造る。
 「自分は何者か?」と、自分と対峙した。「日本人であること、日本独自の価値観とは?伝統は黒と白の世界ではないのか?」と。
 今までやってきた土台に、日本画、書、具体の作品、ヘイター工房での版画等がある。しかし、「これだけでは作品は売れない、皆も同じようなことをそこそこやっているではないか」と、吉原とヘイターという二人の巨匠に出会いながらも「では、松谷は?」と自問自答した。
 時間はあった。鉛筆で紙を塗りつぶす作業からボンド作品にも鉛筆で鉛色をつけた。すると「あぁ、この材料は自分に合っている」と感じた。「これは墨の黒でもなく絵の具の黒でもない、温かい黒」。そして見る角度や照明により、色調が変化する事を発見した。
 「再び蘇った気持ちになったのです。全ての材料の利用と自由な精神が大きな影響を与えたのです」
 松谷氏の少年のような眼差しにぶつかった。自ら開拓し挑戦するという若い感性が、取材をしている私に伝わってきた。
 「パリでの生活でわかったことは、創作する者は100年の単位で考え、つくり出さなければならないということです。フランスは真の思慮深さと秩序を持っている人々がいる。社会の一員の自覚を持ち、その社会の人々を納得させ、感動させなければならない」
 日本には展示のために年に2〜3回ほど帰国する。そして世界中の画廊や美術館に招待作家として飛び立って行く。「創作では苦労しません。好きだから。苦労はフランス語、やはり微妙なフランス語がむずかしいです」


TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

*松谷武判 展示会
2012年5月にパリのギャラリー・リシャード(Galerie Richard)で個展
2012年7月4日〜9月10日まで東京六本木/新国立美術館での「具体回顧展」
2013年2月〜5月NY/グッゲンハイム美術館「GUTAI グル−プ回顧展」
*吉原治良 Jiro YOSHIHARA
大阪生まれ。1905-72年、具体美術協会設立。日本の前衛美術の第一人者。29年に神戸に立ち寄った藤田嗣治から「君の絵は他の画家の影響がありすぎる」と指摘され、オリジナリティ−の重要性を強く認識し、人のまねはしないという戒めを自分の哲学とし「誰もやらない事をやれ」と徹底させた。
*スタンレー・ウイリアム・ヘイター Stanley William HAYTER
ロンドン生まれ。1901-1988 版画家、パリで学び、創作、パリに死す。銅版画においてそれまでの常識を覆す、一版多色刷り(ヘイタ−法)という技巧の考案者。パリとニューヨークに版画工房を開設。60年に東京国際版画ビエンナーレで大賞受賞。
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