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巴里通信は、パリからヨーロッパのアートシーンをお届けします。

tomoko写真

画家(取材者)
TOMOKO K.OBER
トモコ カー.オベール

VOL.44

忍耐と希望を持つ心優しい人たち
画家 - Ewa・Lawrusiewicz【エヴァ・オワルヴロシィエヴィチェ】-

■クラクフの作家協会展へ

エヴァ、展示会のテーマ「海」の作品の前でエヴァ、展示会のテーマ「海」の作品の前で 筆者の作品「豊穣の海」(左)の前でエヴァと筆者の作品「豊穣の海」(左)の前でエヴァと 古都クラクフ市内 クラフク市内クラフク市内 クラクフ中央広場。左の塔は旧市庁舎クラクフ中央広場。左の塔は旧市庁舎 クラクフ中央広場の横にある展示会場のポーランド館(ピンクの建物)ショパンコンサートも開催されるクラクフ中央広場の横にある展示会場のポーランド館(ピンクの建物)ショパンコンサートも開催される 展示会の招待作家たちとエヴァ(右端)展示会の招待作家たちとエヴァ(右端) 展示会オープニングでエヴァ(前列左から2番目)を囲んで。前列左端はヴァヴェル城博物館館長でもあるアーティストのアニア展示会オープニングでエヴァ(前列左から2番目)を囲んで。前列左端はヴァヴェル城博物館館長でもあるアーティストのアニア

ポーランドの画家エヴァとは、数年前に、北ポーランドのグダニスク近郊のアート・シンポジウムに招待されたときに出会った。彼女から今年の9月初旬に「11月10日のクラクフ作家協会の展覧会に出品できますか?また、オープニングにも参加できますか?」と連絡があった。
 クラクフ(南ポ−ランドの古都*1)には2度訪ねたことがあるが、私の好きなとても魅力的な街である。ポーランドには約20年間毎年、さまざまな団体による展示会やシンポジウムにワルシャワをはじめ各地に招待していただいているが、クラフクでの展示会では初めてだったので、すぐに出品し出席する旨の返事を出した。
 テーマは「海」。急いで作品制作に取り掛り、安い飛行機のチケットを見つけて購入(日本円で往復1万5千円位?)した。1ヶ月以内に私の作品を展示会関係者がパリの私のアトリエまで取りに来ることと、作品の写真を専門家に撮ってもらってメールで他の必要書類と一緒に送らなければならないことなど、全てクリアし、間に合うことができた。
 クラクフ作家協会展に招待されて11月9日にクラクフ行きの飛行機に無事に乗ることができた。当地には1週間滞在した。展示会場は町の中心のポーランド会館であるが、ここはショパンのコンサートホールでもある。

■変化の中で

クラクフ生まれのエヴァの案内で今回は観光客では味わえないような場所に行くことができた。また、エヴァと過ごすことのできた時間がたくさんあり、エヴァのアトリエでは取材を通して彼女の人生の一部も垣間見ることもできた。クラクフ市内のエヴァのアトリエは古くからの壁や柱などどっしりとした建物である。昔はユダヤ人の建築様式だったと教えてくれた。
 ポーランドは天才作曲家ショパン、エコール・ド・パリのキスリング(クラクフ出身)などを輩出した背景もあり、芸術家を志す若者たちが豊かな教育を受けていた。エヴァの家族たちもその一族であった。
 「私の前にはピアニストと画家の2つの道が平行してごく自然にありました。父と叔母は音楽家でした。特に叔母の家は音楽や画家たちがいつも集っていた『芸術サロン』がありました。戦前は私達の家族は裕福ないわゆる『ブルジョア』でしたから、子どもの頃からピアノや絵画の特別な芸術教育を受けることができたのです。戦争勃発後、すべてがストップして戦後は政治形態、生活様式も変わらざるを得ませんでした。アーティストに個人や国家団体が仕事を依頼しなくなり、芸術での生活は成り立たなくなったのです」
 エヴァはすべての状況の変化から、ピアニストとしての道を断念、生活のために「絵描き」の道を選んだという。
 「展示プロジェクトをはじめ、ショーウインドーのデコレーション、芝居の背景画、その他、生活の糧を得るために何でも『描く』仕事をしてきました」
 しかし、社会状況のシステムはさらに変化していく。「ご存知の様に会社が抱えたデザイナーに自分たちの満足いく作品を作らせるという完全な職人のみ必要とするようになったのです」
 この50〜60年の社会のシステム変化は世界各国共通である。それ以前からのヨーロッパで連綿と引き継がれてきたアーティストへの要求の大きな変化をもエヴァは話した。あのレオナルド・ダヴィンチさえも社会風潮の変化から晩年は彼の作風は流行遅れと見做され、王侯貴族は見向きもしなくなった。幸いにもフランスの王様が彼の老後を引き取り、フランスで亡くなった。結局はこの時彼が持ってきた「モナリザ」が王様への最高のプレゼントとなって、今日パリルーブル美術館に収められている。

■バルチック海を描く

「私はクラクフの美術大学を卒業後試行錯誤しましたが、結局パリに向かったのです。フランス語を習得し、パリで最先端のヨーロッパ絵画の波を被ったことが、私の作品スタイルを決定しました。あの頃、私の作品はフランスでとても評価されて高額で売れましたのでとても充実した生活でした」
 現在、エヴァは、フランス、イタリア、そしてポーランド各地で作品を発表している。また、クラクフ美術協会理事であり、公共の展示会のオーガナイザ―としてポーランド美術界に貢献している。「来週はポーランド・アーティスト協会理事会がワルシャワで開催されますので出席します」
 個人の展示プロジェクトなどアーティストとしての活動でも多忙な日々である。
 「『新しいものを再発見』、これが常に私の求めているものです。これは私の作品から見つけること。いつも自分の作品と対峙し、その中から新しいものを発見する作業をしています。これは孤独な作業ですが、そうでないと創作は出来ませんし、孤独も好きなのです」。私もよく分かるので思わず頷きながら聴き入った。アーティストの共通することかもしれない。
 「しかし、難しいのは『何時終わらせるか』ということです。これが一番大変なのです」と心の奥をのぞかせた。
 彼女の作品は「砂丘」を思わせるような抽象画であるが、エスパース(空間)を風景を通して表しているという。作品のひとつを指して「これはバルチック海ですが、私自身の不思議な体験の記憶を探しています。光と色彩、そして状況が絶えず変化していることを表現しています。バルチック海はいつも変化するのです。それを記憶に残して描きますが、水は動きを、大地は揺るぎのない固定感を、光、空間または魂、これらを混合して表現したのが私の作品の意図です。モノクロマチック(単色様式)ですが、少量のブルー、オレンジなども使用しています」
 ダイナミックで深遠、底から何かが湧き上がってくるようなバルチック海の抽象画に、しばし見入ってしまった。
 エヴァが近隣の美術館を幾つか案内してくれたが、特に「マンガ館」(*2)と、シンドラー(*3)の工場跡が改築されて、今は「現代アートセンター」になっていたのが印象的だった。
 また、市内にあるユダヤ人街が今一番「ナウ」になっているという事でエヴァに案内してもらった。
 また私個人の希望で一人で郊外のアウシュヴィッツを再び訪れた。美しい歴史的な街は人間の愚かさで悲劇が繰り返されてきた。その中で何代にもわたって引き継がれてきた忍耐力と、絶えず希望を持つ心の優しいこの人たちに敬服する。


エヴァの作品エヴァの作品
エヴァのアトリエにてエヴァのアトリエにて
「働けば自由になる」(ARBEIT MACHT FREI)を掲げる門をくぐりアウシュビッツ強制収容所跡に入る「働けば自由になる」(ARBEIT MACHT FREI)を掲げる門をくぐりアウシュビッツ強制収容所跡に入る
マンガ館のテラスからヴァヴェル城を背景に、筆者マンガ館のテラスからヴァヴェル城を背景に、筆者

(*1)クラクフ
南ポーランドの古都、第2次大戦で被害を受けず古い中世の町並みが残っている文化都市。1978年にクラクフ中心部が世界文化遺産に登録された。

(*2)日本美術技術博物館(マンガ館・設計は建築家の磯崎新氏)
19世紀末から20世紀にかけて日本美術品コレクターをしたフェリクス・ヤンスキ氏のニックネネームが「北斎漫画」から取った「Manggha」。彼は1920年にクラクフ国立博物館に7千点以上の日本美術品を寄贈したがお蔵入りのままだった。1987年にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ氏が「京都賞」を受賞した際、彼はこれを基に岩波ホールを拠点とし日本人からも基金を募り、ヤンスキ氏のコレクションが展示できるこのセンターを設立した。

(*3)オスカー・シンドラー
日本でもスピルバーグ監督による「シンドラーのリスト」の映画で知られているドイツ人の工場主。当時クラクフの陶器工場など経営していたが、ドイツ・ナチスのユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)のなかで、1100人以上ものポーランド系ユダヤ人の命を救った。



TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

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