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巴里通信は、パリからヨーロッパのアートシーンをお届けします。

tomoko写真

画家(取材者)
TOMOKO K.OBER
トモコ カー.オベール

VOL.48

母を思う気持ちは世界共通
文筆家・インスタレーション作家 - Birgitta・Lindqvist【ビルギッタ・リンドクヴィスト】-

展示会のDM展示会のDM メトロ‘ブランシュ’で降り、右の坂道を行くとルピック通り。奥にムーラン・ルージュが見えるメトロ‘ブランシュ’で降り、右の坂道を行くとルピック通り。奥にムーラン・ルージュが見える 映画「アメリ」の舞台になったルピック通りのカフェ。観光客が来てる映画「アメリ」の舞台になったルピック通りのカフェ。観光客が来てる ルピック通りのテオのアパルトマンでピカソが居候(1885-1888)していたルピック通りのテオのアパルトマンでピカソが居候(1885-1888)していた ルピック通りにある有名な‘ムーラン・ド・ラ・ギャレット’。左の黒っぽい家がギャラリー
ルピック通りにある有名な‘ムーラン・ド・ラ・ギャレット’。左の黒っぽい家がギャラリー ギャラリーの前でギャラリーの前で
ギャラリー内で
ギャラリー内で 筆者と
筆者と
ギャラリー内で、左は娘のサチコ
ギャラリー内で、左は娘のサチコ
ビルギッタの母親が作った靴
ビルギッタの母親が作った靴

パリのスウェーデン協会でインスタレーションの展示案内状を受け取った。古い写真をベースに“母のスカーフとの対話”とあった。裏側に“……スカーフは単なる布切れと思っていませんか?あなたが聞く耳を持っていれば、この布は母の歴史です。つまり香り、秘め事、夢、音楽、ダンスなどをあなたに語りかけます……”と、ユニークな文面が書いてあった。ギャラリーの場所はルピック通り(*1)だったので、好奇心を抑えきれずに出かけていった。
 ギャラリーでインスタレーションの作者ビルギッタに出会った。私と同年代の彼女の話を聞いていて、ひとりのスウェーデン女性ビルギッタと彼女の母のヒストリーを知ることになる。彼女の母をテーマにした展示を見て、私は6年前に亡くなった私の日本の母に思いを重ねて感動した。

■母イングリッドの追憶

取材の日、ビルギッタはブルーのドレスにゴールドのネックレスを胸に優雅に迎えてくれた。ブルーは貴族の色として正式な行事の際によく使われる色である。ギャラリーの中に入るとたくさんのスカーフが洗濯ばさみでロープに下げられていた。
 「全部母のスカーフです。彼女が色々な国に行ったときに買って集めたのです」
 ふと懐かしい香りがするようなデザイン画のスカーフがひらひらと舞っていた。見渡してから「良いアイディアですね」と言って帰ろうとしたら、「日本の方?私も日本に住んでいました」と、彼女は美しいフランス語で話しかけてきた。そして、彼女と日本についてのさまざまな話題で大いに盛り上がった。
 地下にも作品を展示しているというので降りていくと、古い写真が中央の壁に飾られていた。若く美しい彼女の母イングリットが映し出されていた。
 「何歳くらいに見えますか?」という問いに、「30歳前後?」と答えると「いいえ、17歳です。スウェーデンには、数え切れないほどの森と湖がありますが、ここは母がキャンプに来た場所です。後ろにテントが見えるでしょう」と。とても17歳とは思えない堂々とした大人の女性であった。「でも森の中でどうしてスーツとスカーフ、靴とバッグ、正装してキャンプに?」と、不思議に思い尋ねると「大切なダンスパーティのためです」と。若い彼女たちのキャンプはこの時代は野外ダンスパーティー付きであったのだった。1930代はピクニックなども流行っていた時代であった。
 「母は1922年6月23日の聖ヨハネの前夜祭(*2)(サン・ジャンの火祭り)生まれで、ダンスや歌が好きでとても上手でした。14、5歳から富豪の家で娘さんのお世話をしたり、レストランで働いたりしていました。やはり楽しみはサン・ジャン祭で踊ったり歌ったりすることで、アコーディオンやギターそしてヨーデルも上手でしたのでお祭りの時はよくステージに立ちました」

◇◇◇

1939年に戦争(第2次世界戦争)が勃発、スウェーデンは中立国だったので直接ドイツ軍からの攻撃はなかったが、男達は守備防御のために武装し軍隊を国境沿いに配置した。
 「父もその一人でした。隣のノルウェイ、フィンランド、デンマークなどは大変な被害を受けたようです」。41年、彼女の母が19歳、父が19歳の時、婚約式をして43年に結婚。45年に彼女が生まれた。
 「私たちが住んでいた中央スウェーデンのオレブロ(首都のストックホルムより西に550km)は古いお城や教会がありますが、主に靴生産の工場がたくさんありました。母も靴の工場で働いていました。お金を節約し新しいイタリア製のスクーターを買い、何年か後にはボルボ(自動車)を買ったのです」
 生きていれば96歳の私の母と同年代のスウェーデン女性が、さっそうとボルボを運転していたということだ。
 「ここ並んでいる靴は母が作ったもので、まだしっかりしていて履くことができます。そして手前の靴(白靴に縁がミドリ)は私の娘サチコ・エレンが結婚式の時に履きました。紅白の水玉の靴は母がこれを履いてフラメンコを踊ったのです。その小さな白い仔牛の革靴は私が1歳くらいの時履いたものです」
 何枚かの両親の写真やビルギッタの子どもの頃の写真、お母さんが靴縫製用のミシンで靴を作っている写真なども展示されていた。
 「母は憧れのパリに来てムーラン・ルージュに感動したとよく話していました。私は今一人ですので母の追憶のために展示を考えて準備をしてきました。スカ−フは母の香りや暖かさ、青春や戦争の事など、まるで母が私の傍で語ってくれているような気持ちになります」。私はこの展示と彼女の話に感動し、ビルギッタ自身のヒストリーにも興味を抱いた。

■ビルギッタのヒストリー

中央スウェーデンのオレブロ生まれの彼女の話を聞いていて、国の「真の豊かさ」がどういうものであるかを知らされた思いがした。
 「高校を卒業した18歳の時、800人の学生が国の留学援助で1年間アメリカのアイオワ州に語学留学しました。1962年当時、船で1週間かけてまずニューヨークに着きました。船が嵐でもまれ海に浮かぶ木の葉のようになった時もあったのですが、“自由の女神”が見えた時は、まるで移民者がニューヨークに着いて感激したような感じでしたよ」。同年代の私たち二人は大笑いした。
 国の方針で戦後若い学生の交流を通し文化や言語をしっかり身に付けさせたようだ。その後ウプサラ市(ストックホルムより北に70km)のウプサラ大学(1471年創立の聖職者育成のための北欧最古の大学)で、スウェーデン語と英語で言語文学修士号を取り、大学時代は毎夏ごとにドイツ語を学ぶために北ドイツに行って、4ヶ国語を大学卒業までに修得したという。
 最初の夫はスウェーデン人の中国史専門のエルム氏と9年間(62年〜71年)過ごした。その後、彼はキューバのスウェーデン大使館勤務のためキューバへ。中国語が話せた夫は北京のスウェーデン大使館に勤務。ビルギッタも同行した。しかし「文化大革命」(66年)になり約2年間、大使館関係者全員が母国に戻れない軟禁状態におかれた。当時の北京のスウェーデン大使館は、大使館内に15、6名の館員がいたという。
 「何もできず、中国語を覚える事ぐらいしかありませんでしたが、今は中国語がとても役立っています。その間に私は周恩来や中国の詩人たちに出会うことになりました。毛沢東は、新年の建国20周年記念式典(69年)で天安門広場で見ました。広大なマスゲームもしっかり見ましたよ。スウェーデンに手紙を書いても2週間以上もかかり、母の手紙を受け取るには約1ヶ月を要しました」現在、彼女は何冊もの中国語の本をスウェーデン語やフランス語に翻訳して出版している。

◇◇◇

その後、71年にはスウェーデンに戻れるようになったが、彼女は2人の子どもの子育てをしながら夫の転勤とともに海外での生活をおくる。
 「大使館員としてフィンランドへ、次にエジプトへ行きました。当時覚えたアラビア語は、今はすっかり忘れていますが聞き取る事はできますよ」
 エジプトで2番目の夫となるリンドクヴィスト氏に出会う。夫と離婚してリンドクヴィスト氏と子供たちと共にスウェーデンに戻った。彼はスウェーデンで著名なジャーナリストで文筆家であった。「そして、彼と子どもたちと一緒に日本に行ったのです」。いよいよ日本が出てきて2人でニッコリ。インタビューはフランス語だったが、時々優しい口調の日本語で彼女が話し出すこともあった。
 「NHKの中に彼のオフィスを置いてスウェーデンのテレビ局本部を設置したのです。住まいは明治神宮や原宿が近かったですね。そしてミドリさんという女性から日本語を教えてもらいました。寿司・刺身・焼き鳥・天ぷらなど全部大好きでした。特に日本酒は最高!」
 ビルギッタは目を細めながら、なつかしい日本や親切だった日本人たちを眼前に見ているように話しはじめた。約5年間の日本の素晴らしい思い出は尽きることがないという。日本で3人目の子どもサチコ・エランが生まれた。サチコは日本語がとても上手で小鳥のような柔らかい日本語で話ができるという。
 「日本人はどこでもみんなとても親切にしてくれました。3人の子どもを連れてよく渋谷に行きましたが、『わー、かわいい』と、子どもたちの周りには何人も人が寄ってきましたよ」と嬉しそうに話す。
 その後、夫はパリのスウェーデンラジオ局の責任者としてフランスへ、次にマドリッドのスウェーデンのラジオ・テレビ局へと移動。彼女はマドリッドでスペイン語も学ぶことができた。91年、ビルギッタは2番目の夫とも離婚、それから現在までパリに在住している。
 「もう動きません。今は1人になり自分の事を考え、自分のやるべき仕事をしています。それは書く事です」。文学、小説、詩、童話等の執筆と、中国語・フランス語・英語などの翻訳の仕事をしながら、展示会も企画する。
 「今回は母のスカーフを見つけ、母が作った靴や洋服などを展示しましたが、このパリのギャラリーは、いろいろな国の人たちが来廊します。しかし、母親を思う気持ちは世界共通です。あなたが私の母の話を聞いて涙ぐみましたが、何人もの人たちがあなたと同じように涙しました」
 私が以前取材した日本とスウェーデンの狭間で生きるピアニスト、フジコ・ヘミングにも共通するようなたくましさと繊細さを持ち合わせたビルギッタの話は、深く感動させて魅力にあふれていた。


両親の写真やビルギッタの子どもの頃の写真、母親が靴縫製用ミシンで靴を作っている写真が展示されている両親の写真やビルギッタの子どもの頃の写真、母親が靴縫製用ミシンで靴を作っている写真が展示されている
母親が作った洋服母親が作った洋服
当時のダンスパーティーのポスター当時のダンスパーティーのポスター

母親が作ってくれた、ビルギッタが1歳くらいの時の靴母親が作ってくれた、ビルギッタが1歳くらいの時の靴
彼女の本彼女の本
中国の童話をフランス語に訳した中国の童話をフランス語に訳した

*スウェーデン王国
北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置する立憲君主制国家。現国王はベルナドッテ家のカール6世ダスタフ。1818年よりフランス人ベルナドット元帥がカール14世ヨハンとして国王に即位しベルナドッテ朝が始まる。第1次・2大戦中は武装中立政策を取り大戦に不参加。面積は日本より広くほぼフランスと同様、しかし人口は低密度で日本の12分の1。冬の寒さは厳しく夏も冷涼で農業に適さず酪農が主。高税高福祉。福音ルーテル教会がスウェーデン国教会で、人口の8割が所属。著名な出身者(聖ビルギッタ、アルフレッド・ノーベル、グレタ・ガルボ、イングリッド・バーグマン、イングマール・ベルイマン、フジコ・ヘミング等)

*1)ルピック通り
モンマルトル界隈で一番有名な通りで、カフェ・レストラン・小劇場等が沢山ある。一昔前の村の賑わいと雰囲気が保たれており、観光客が押し寄せている。昔画家がアトリエを構えたところが沢山あり、ゴッホもこの通りにあった弟テオのアパルトマンにいて、この周辺を描いた。

*2)聖ヨハネの前夜祭(サン・ジャンの火祭り)
* 洗礼者ヨハネの聖ヨハネの日(6月23日またはその前後)の前夜に世界の各地でキリスト教徒が祝う祭り。夏至近くにあるのでキリスト教と関係のない各地の夏至祭と結びつき火祭りとして祝われ、一晩中飲み食い踊る。(ウィキペディア参照)



TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

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