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巴里通信は、パリからヨーロッパのアートシーンをお届けします。

tomoko写真

画家(取材者)
TOMOKO K.OBER
トモコ カー.オベール

VOL.49

2016年の7月、ポーランドを訪ねて
ショパン博物館(ショパンの生家)館長 - Tadeusz・Owczuk【タデウス・オヴチョック】-

館長(左)と筆者トモコ館長(左)と筆者トモコ 館長(右)と友人のアーティスト・マヤ館長(右)と友人のアーティスト・マヤ ショパンの生家(博物館)ショパンの生家(博物館) ショパン博物館の前で、筆者トモコショパン博物館の前で、筆者トモコ ショパンの肖像画ショパンの肖像画 サロン
サロン 暖炉のある部屋(白いタイル張りになっている)暖炉のある部屋(白いタイル張りになっている)
憂いのある美しいショパンの胸像
憂いのある美しいショパンの胸像 ピアノのある部屋
ピアノのある部屋

約10年前、私はポーランドのワルシャワで開催されたアート・シンポジウムに招待された。その時に歓迎の催しの一つとしてフレデリック・フランソワ・ショパン(*1)の生家「ショパン博物館」の庭でワルシャワの一流のピアニストによるショパンのピアノ曲の演奏が行われた。
 私は生家の前で他のアーティストや世界中から集まったファンたちと共にショパンの曲を聴き、ショパンのパリでの生涯に思いを馳せながら、涙がハラハラと落ちた。それまでは彼にあまり深く関心を持たなかった私だったが、この時以来、ショパンのファンになってしまった。

■ヨーロッパの王様ご夫妻や世界の著名人を迎えて

ワルシャワから60kmほど西のジェラゾヴァ・ヴォラ村にショパンの生家が保存されている。堂々とした体格のショパン博物館のタデウス・オヴチョック館長が、趣味の良い服を身につけて新しくできた会館の入口で出迎えてくれた。私はポ−ランド人の友人の画家マヤ・ヴォジナロウスカの通訳によって館長のインタビューを行うことになっている。パリからワルシャワ郊外に住むマヤと何回メ−ルのやり取りをしたことか!館長ももちろんマヤも多忙な中、マヤの強力なコネクションのお陰で、私のスケジュールの中で館長のインタヴューが実現した。私は感無量で、出迎えてくれた館長と親愛の挨拶を交わした。
 「私は39年間この博物館の管理責任者として勤めています。私はワルシャワの大学で造園設計の専門分野で勉強して造園設計師の資格を取得しました。39年前にこの館の管理者募集を目にして応募し採用されたのです。ここは広大な敷地に品質優秀な旧庭と家屋、そして植物や古木が沢山あり飛びついたのです」
 ちなみにポ−ランドは平地が多く、その中にたくさんの林や森そして無数の湖がある国なので、自然を育成し保護管理する分野の専門職がたくさんある。そして、国土を豊かに保つためにもそれらの仕事はとても高水準で誇りとされている。
 私は10数年前から毎年ポ−ランドのいろいろな地域で行われるシンポジウムに招待されていているが、それらの地域の体験から、造園や森林に関するポーランド人の意識の高さには驚かされたのであった。
 館長は楽器をたしなむことはないと前置きしながら、「しかし、長い間ここにいて良く分かります。ショパンの曲は素晴らしい。彼はポーランドの誇るべき世界の音楽家です。ここはワルシャワ市の管理の下にこの庭に適した植物をいかに芸術的に配置するかなど、高いテクニックが要求されます。その他に観光局の分野では、ショパンコンクール受賞者が決まった後、ここで受賞者の演奏が披露されますが、すでに62回開催されました。若き才能ある音楽家のコンサ−トやEXPOの企画も絶えず行っています」
 この館を訪れる人たちはもちろん音楽関係者だけではない。「ショパンを愛する人たちが世界中から訪れます。ヨーロッパの王様ご夫妻や世界的に著名な方々も訪れるのでお迎えします。そうそう、ウンベルト・エーコ(*2)が訪れ出会ったときは、強烈な印象がありました。日本人の訪問者も多く、老若男女を問わずに熱心なショパンのファンがいることがよく分かりました。昔この庭に銀杏の木や桜の木が日本から寄贈、植林されて今日も残っています」と、専門の樹木の話に必ず戻るのは、さすが造園設計師の管理者である。

■ショパンの家と家族たち

当時のショパンを取り巻くポーランドの環境や歴史などを、ショパン博物館を運営するポーランド人の館長から、今までにないリアリティーをもった言葉で聞くことができた。
 「18世紀以来、フランスとポーランドの関係は、とても強いつながりがありました。ショパンのお父さんはここに間借りをして、貴族の子供たちにフランス語のレッスンをしていたのです。当時はソ連の力も強かったのですが、フランスからポ−ランドにたくさんの移民が入ってきていました。ショパンの父、ニコラも16歳で移民としてポーランドにきたのです。この家の昔の庭の状況はあまり良く知られていなかったし、家ももっと質素で小さかったのですが、家の内部の間取りはほぼそのまま残されています。庭は戦後手を入れて作りましたが、小川もありますし、ショパンの好きな柳の木もあります」
 ワルシャワの中心にあるワジェンキ公園には、柳の木の下でショパンが思索中の座った銅像がある。私はその木が柳と分かるまで時間がかかった。私はこの場所でも4年前、ワルシャワの友人を尋ねた時、「今日から公園で“ショパン祭”が始まるので案内しますよ」ということで、友人と出かけてショパンの名曲を聴くことができた。演奏したピアニストと話したが、素晴らしいフランス語だった。
 生家の前には大きな貴族の館があったが、今は跡形もない。小さな独立した執務室のような生家だけが残された。ショパンの父は、貴族の館に住み込みで働いていた貴族の遠縁にあたる女性と結婚し、ショパンと姉、妹が誕生した。両親とも楽器をたしなんだ。当時は貴族たちの館にはピアノが必ずあったので、ショパンは小さい時からピアノの音を耳にして育っていたので、音楽的環境は揃っていた。ショパンが1歳前に父のワルシャワでのフランス語教師の仕事の都合でここを離れたが、よくヴァカンスに訪れていたという。
 「一家は1810年の秋、ワルシャワに引っ越しますが、その後も家族は夏休みやクリスマスに、この田舎でヴァカンスを過ごしたのです。それで貴族の家主との信頼関係が親密だったのがわかります。例えば、フレデリックは“ポロネーズ ト単調”をスカルベク伯爵に献辞しました。また、お父さんは、フレデリックのお姉さんの結婚の証人や洗礼の代父を伯爵に頼んでいます。この博物館は本家の離れで炊事場や執務室に当てられていたのですが、当時の内装品は何一つ残されていませんでした。修復の際に貴族の屋敷の特徴である柱を備えた玄関ポ―チが付けられたのです」
 そういえばマヤの家も同様のポーチが玄関にあり、広い屋敷の周囲に広大な庭がある貴族の館であった。
 「この小さな家は1830年頃には老朽化して、家主の貴族も亡くなり、朽ち果てそうだったのです。貴族の屋敷は1920年頃火災により一部が消失したので後に解体されてしまいました。その後、地主が交代し横の方に入口を作りましたが、これは今日でもコンサートの際に開放されています」
 そこが私が木のベンチに座って感激のコンサ−トを聴いた場所だ。ポーランド初のショパン記念像は、彼が亡くなってから55年後の1894年に建造された。館の全ての修復が完了したのはその20年後であったという。
 マヤは私達のヴェルニサージュにアレクサンドラ・グヴォヴァツカ氏を紹介してくれた。生家から程近い所のサンニキにサンニキ文化センター(旧プルシャック邸)がある。ここにショパンは19歳くらいの時3ヶ月ほど静養を兼ねて来ており、現存する数少ないショパンの使用したピアノや遺品も展示してある。彼女はこの文化センターの館長を長い間しており昨年退職し、今回ヴェルニサージュで言葉を交わす事ができた。
 ショパンが幼い時から音に対して敏感だった事は知られているが、一日中ピアノに向き合っている若い青年に対して、家族や周囲の人は戸外に出して新鮮な空気や植物や木々の傍で散歩したり、ゆったりさせる事を望んだ。ひきこもりっぱなしではなくて、他者との接触も必要と考えたのだ。サンニキの館ではピアノに鍵をかけられてショパンが頭に来ている様子を、後の専門家の意見や記事などによって知った。
 マヤは、ショパンの「心臓を祖国ワルシャワへ」という遺言は、遺体を運ぶのにはお金がかかり過ぎるのを知っていたからと話していた。パリにあるぺール・ラシェーズ墓地の彼の墓前は、いつも世界中のショパンのファンが捧げる花で一杯になっている。


前サンニキ文化センター館長(右)と筆者トモコ。トモコの作品の前で(右から2点)前サンニキ文化センター館長(右)と筆者トモコ。
トモコの作品の前で(右から2点)
書斎書斎
書斎からピアノ室を見る書斎からピアノ室を見る
当時の食器と食器棚当時の食器と食器棚
父の誕生日の手紙。ショパン家4人の子どもたちが署名している父の誕生日の手紙。ショパン家4人の子どもたちが署名している

ショパンの彫像ショパンの彫像
博物館の裏庭がコンサート会場に博物館の裏庭がコンサート会場に
美しく手入れの行き届いた庭園美しく手入れの行き届いた庭園
広い庭園広い庭園
庭園には花々が咲いていた庭園には花々が咲いていた

(*1)フレデリック・フランソワ・ショパン(フランス語: Frédéric François Chopin 、ポーランド語: Fryderyk Franciszek Chopin 1810年-1849年)
ポーランド生まれ、パリに死す。当時すでにヨーロッパを代表するピアニスト・作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれている。色々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を開いた。(出典:ウイキぺディア)

(*2)ウンベルト・エーコ(Umberto Eco, 1932年1月5日 - 2016年2月19日)
イタリアの小説家、エッセイスト、文芸評論家、哲学者、記号学者。イタリア共和国功労勲章受章者。1980年に発表された画期的歴史小説『薔薇の名前(Il nome della rosa)』の著者として最もよく知られる。同作品はフィクションの記号論的分析、聖書分析、中世研究、文学理論の要素を盛り込んだ知的ミステリーである。後に発表した小説作品には、『フーコーの振り子(Il pendolo di Foucault)』、『前日島(L'isola del giorno prima)』などがある。2010年に上梓した『プラハの墓地(Il cimitero di Praga)』はベストセラーとなった。(出典:ウイキペディア)



TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

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