アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「地域レポート」No.10

「新生ふるきゃら」代表 故石塚克彦追悼公演 -ミュージカル「風そより-それでも生きている街-」-

全国の人々の応援で新生した劇団

劇団代表であり脚本家・演出家であった石塚克彦氏が急逝した(2015年10月27日)。若い頃は画家志望だった彼は、後にミュージカル作家に転身し1983年に「劇団ふるさときゃらばん」を結成した。日本の風土に根ざした大衆ミュージカルを創造し全国各地で上演、野口久光の支持を得た。

最初の作品「親父と嫁さん」は「昭和60年度芸術祭」受賞。1990年に日米合作・日米同数のキャスト・スタッフで両国をツアー、2年後にバルセロナ五輪芸術祭に参加している。

2002年に石塚氏は映画監督としてデビュー、「走れ!ケッタマシン」を全国映画館で上映。劇団の勢いは国内外に知られるようになった。

その数年後、演劇界の低迷期となり劇団は自己破産する。しかし、日本中の応援する人々の声援に応えて、ふるさときゃらばんメンバーの有志が集まり「新生ふるきゃら」を設立させて復活した(2010年5月)。第1弾は商店街を舞台としたミュージカル「トランクロードのかぐや姫」で上演活動を開始。翌年には大人と子どものためのミュージカル「瓶ケ森の河童」を、続いて防災がテーマのバラエティー「稲ムラの火」をそれぞれ各地で巡演し続けている。一昨年には東日本大震災の被災地・岩手県久慈市を取材し、町工場の再生に奮闘する人々を描いたミュージカル「ドリーム工場」の全国公演の展開をはじめた。

そして昨年はファンタジーミュージカル「天狗のかくれ里」を三越劇場にてスタートし、今各地で巡演中である。しかし、劇団は石塚代表の急逝を受け、今年いっぱいで解散することとなり、1983年からの32年間の幕を閉じることになった。

「生きているということは、陽気にくらすということ」

石塚氏は栃木県烏山町(現・那須烏山市)出身である。日本の原風景を残す故郷の山や川を自由に跳んで歩いていた少年時代が、そのまま舞台に繰りひろげられていたようだ。同時に日本の「地方」と位置づけられる地域町村の問題も身に沁みて感じていた。

武蔵野美術大学洋画科で棟方志功などに師事し、その後奈良へ遊学、画家活動の傍ら舞台美術を手掛け演劇界に入った。26歳の頃からシナリオライター山形雄策について新劇の脚本を書き始めミュージカル作家として舞台脚本・演出に生涯を捧げた。

彼の最後の作・演出となるミュージカル「風そより―それでも生きている街―」のリーフレットに書いた文に、彼の故郷を思う気持ちが滲み出ている。

「いまの日本には消滅可能な市町村が840もあるという。消滅可能な地域というのは人口がどんどん減って、自治体として成りたたなくなってしまうことだ。そうした街の中心街・駅前通りも、一軒、また一軒と歯抜けのようにシャッターをおろしてゆく。…………そんな消滅可能な街にくらす人々を、陽気なミュージカルに仕立て、上演するのが“ふるきゃら”の勤めだとも考えている。人々は、どんな逆境にあっても、陽気にくらしている。生きているということは、陽気にくらすということかも知れない。そんな舞台が作れたらいいなァ」

石塚氏と同郷の出身で高校の先輩である劇団の応援者「栃木トヨタ自動車(株)」先代の社長の思いを引き継いで、ご子息である新井将能現社長が毎年協賛を申し出てくれている。

石塚氏追悼公演は彼の生きてきた証しを、劇団員が持てるすべてを出し切って上演するミュージカルである。石塚氏の思いと一体となった劇団員のミュージカルが観客の心をつかむ舞台となるであろう。日本の小さな町村の人々を愛し、「ふるさと」を大切に見つめてきた惜しい作家が亡くなり、惜しい劇団が消えていく。せめて追悼公演をこの目にしっかり焼き付けておきたいと思う。

故石塚克彦氏

ミュージカルカンパニーふるきゃら

http://www.furucara.com

他の主要作品

1985年 MUSICAL「親父と嫁さん」第40回記念文化庁芸術祭賞

1990年 「1日で創る300人のミュージカル」日本イベント大賞最優秀企画賞

1996年 MUSICAL「パパは家族の用心棒」水産ジャーナリストの会賞

1996年 MUSICAL「裸になったサラリーマン」スポニチ文化芸術大賞グランプリ

2000年 MUSICAL「噂のファミリー」東京芸術劇場ミュージカル月間優秀賞

その他 「ユー・Ah!マイSUN社員」「サラリーマンの金メダル」などのサラリーマンミュージカル。これらの上演活動により日本舞台芸術家組合賞を受賞。「ムラは3・3・7拍子」「地震カミナリ火事オヤジ」などのカントリーミュージカル。「地震カミナリ火事オヤジ」は400回の地方巡演をおこない、日本消防協会より表彰される。また、石塚氏は地方巡業の傍ら、棚田の保存運動を展開し、日本橋三越で大規模な棚田展を開き棚田ブームをつくった。棚田学会設立に尽力し、学会副会長として棚田保存に貢献してきた。