アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「地域レポート」No.18

その時、あなたの家族がどうしていたか知ってますか?
―第34回宇都宮空襲展(主催:ピースうつのみや)―

1945年(昭和20年)7月12日23時10分。目標を宇都宮中心市街地とし、中央小学校を投下目標点と定めた空襲がはじまっていた。115機のB-29 により、M47焼夷爆弾約1万個、E46集束焼夷弾約2千個が落とされた。死者620人、負傷者1128人、罹災戸数9173戸10603世帯以上の被害がでた。(1944年12月末の世帯数は19455世帯)

「ピースうつのみや」ポスターより

 

宇都宮空襲展が市内オリオンACプラザで20日~26日まで開催された。「その時、あなたの家族がどうしていたか知ってますか?」の問いかけをテーマに、被災した状況のジオラマや写真や書籍などを展示。また戦争体験の証言などを文章にして分かりやすく展示した。訪れた市民にスタッフたちは説明をし、また体験した方が訪れると丁寧に話を聞いて記録する作業などを行った。今回、「ピースうつのみや」スタッフの3名に話を伺うことができた。

会場の様子

第34回展示会企画リーダー 「ピースうつのみや」スタッフ 近藤康之さんの話

「ピースうつのみや」は空襲を経験した父親が参加していましたので、展示準備など活動を手伝うようになりました。

今回の企画は徳田浩淳先生(郷土史家・故人)の手記、ドキュメンタリーで書かれているものを展示しました。具体的にはこういった資料がありますというのを、まず前面に出していこうと提案しました。それに付随して、いままで100名くらいの市民の方が書かれている体験記をできるだけ取り上げました。体験手記と空襲の客観的なデータを見える形で展示する事により、初めて訪れた方もある程度は理解してもらえるかなと考えました。

身内の方でも祖父母や父母の手記が残っているのを知らなかったりするので、今まで「私は空襲とは関係ない」と思っていた方も、実は祖父母の手記が残っていたりすると「私の家も戦争に係わりがあった」と、実感しやすいのではないでしょうか。

他にも、昭和50年に小・中学校で自分の親から「戦争体験を聞こう」というテーマで聞いたものをまとめた本があります。当時書いた方がいま50歳、60歳代ですが、もう一度、空襲や戦争に関することを思い出していただければと紹介しました。さらに、ワーキングシートを配布し「私も知ってるよ、聞いているよ」ということを様々な年代の方に新たに書いてもらって展示しました。

体験手記によると東京から来ていた憲兵隊が市役所辺りにいて、空襲されると思って空襲前に大欅の下に銃剣類を埋めたらしいです。消防隊も空襲の2~3日前に東京から応援が来ている。市役所も危ないかもしれないから書類を防空壕に運んでいたようです。市民の間では近々空襲があるという噂にはなっていたようですが、12日は雨だから今日は大丈夫ではと思った人もいたとか。毎日のように空襲警報が鳴ってたのにその日だけ鳴ってなかった。だからみんな安心していたようです。

そのようなことを13歳の男の子が一人で訪れて経験者に熱心に話を聞いていたり、学校で宇都宮空襲のことを教わった女の子が、お母さんを連れて見にきたりしています。展示会などの活動に触れることで、戦争について知ろう、考えてみようというきっかけになればと思います。

今回の展示会企画のリーダー
近藤康之さん

故徳田浩淳さんの紹介

体験手記の紹介

「ピースうつのみや」スタッフ 速水美矢子さんの話

当時私は5歳でしたので何もわからないでいましたが、成長するに従って「あの時真っ赤に見えていたのが戦争だった」と後から認識したそういう世代です。桜通りの桜の木が緑になっていた季節でしたが、そこを通して向こう側が真っ赤に見えました。何か力なく歩いている人、桜の木の根元でうずくまっている人、その人たちが何をしていたのか、どうしてあんな風だったのかなどは、やはり大きくなるにしたがって戦争のことを聞く機会を重ねることで、「あれが宇都宮空襲だったのだ」と認識できたのです。住んでいた桜通りは空襲の中心地から少し離れていたのですが、たくさんの亡くなった方の様子などを知り後でとても怖くなりました。 

また桜通りは軍の施設があって、敗戦後アメリカの進駐軍が入ってきましたので、親から「アメリカ兵には近づくんじゃないよ」と言われていて影からそっと見ているだけでした。自分はそのような地域にいたことを新たに認識しましたね。

小学校に教員として勤務していたときは、同僚と社会科の授業の一環として、現在ピースうつのみやが保管している空襲で街が焼け野原になる「赤い絵」を借りて教室に貼りめぐらし、子どもたちに戦争の話をしました。子どもたちは教室に入ってきて絵を見て「わっ」と驚いてしまいますが、「これが宇都宮のあなた達の住んでいるところだったのよ」と指し示すと、リアルに自分たちの地域を思い浮かべます。子どもたちは本当に驚いて、こんなことが本当にあったんだということを感じ取ります。「戦争は駄目」と言葉では言えますがなかなかリアルには感じられません。自分たちが生活するなかで戦争に向く世の流れを感じ取って、自分たちはそれを止める役割をしなくてはならないと子どもたちは感じ取ってくれたと思っています。

私も成長するにしたがって宇都宮に大きな空襲があったことで戦争に対する自分の認識を新たにしました。反戦のために何かできることはないかと思い、定年後この活動に参加するようになりました。「戦争なんて絶対ダメだ」ということを子どもたちに、若い世代に知ってもらいたいと切に願いつつこの活動を継続しています。

5歳の頃の記憶をたどって語る速水美矢子さん

被災状況のジオラマと写真

「ピースうつのみや」代表 田中一紀さんの話

なんだかんだ言ってもやはり「継続していくことが一番大切」というのが創立者の徳田浩淳代表から受け継いできたことです。一過性に終わらせないという一つの命題として受け継いできたのがベースにあって、問題は、折角市民から寄せられた貴重な資料、財産をいかに保存していくか、その辺が行政の皆さんと一緒にならないとできない、行政と民間が一体となって保存するような方法を見つけていかないと、この貴重な資料が後世に残らないと思います。このことが一番大きな課題だと思っています。

もともと宇都宮市は美術館ではなくて博物館をつくるという決定をしていたのですが、それが美術館に化けてしまった。市民の貴重な財産を受け止める窓口となるべき博物館がつくられなかった。そこに市側の弱さ、不十分さが出ていると思います。増山道保市長の時に第3次宇都宮市総合計画(「21世紀へ、うつのみやハイプラン」1986年〔昭和61年〕7月)を立て方針として出されていたのですが、それが時代が変わると変化して美術館になったように、行政もトップも担当者も変わることによって事業の継続が非常に難しくなってしまう。そのような関係で一貫して市民の財産を受け止めていく部署が定まっていないのが最大の問題と思っています。

亡くなられた徳田さんが集められた貴重な資料、市民からの投書など、それらを市に寄贈すると徳田さんが言いましたが、ところが市がそれを受け止めることができずに拒否されたのです。徳田さんが亡くなれれたときの葬儀実行委員長は当時市長だった増山さんという事実が残っているのですが、市としては貴重な市民の間に眠っている財産を受け止めることができないという伝統がある。信頼感を生み出すには、市民の持つ価値あるものを寄付する、受け止める、などのやり取りができないと、市民との信頼関係は醸成されないと思います。そういうものが根底にあれば私たちがこのように続けてきたものも生かされる機会があると思います。

戦後73年も経っていますから、若い方々には遥か彼方の話しです。空襲や戦争の事実を知るということは、生活感覚から遠く離れたもので、受け容れるにも非常に難しいですね。そのためには、ここにあるような資料が身近に見えるところにあれば、受け止め方も変わる可能性があるわけです。

行政が市民活動している市民の相談相手になれるような関係を作れるならば、市民の運動も継続できます。どっちかが欠けると難しくなると思います。行政はこれまでとってきた姿勢を切り替えないと市民との信頼関係が醸成できません。市民も自覚を高め、市政の主人公は市民であることを行政にアピールしていくことが大切です。現状のままでは特殊な利害関係者たちによる市政運営に陥る危険性があります。ですから次世代を担う若者たちには「事実に基づいて自らの感性を生かして」宇都宮空襲の事態や記録について、自らの手で発信していって欲しい。私たちの会の有する資料、記録を提供します。宇都宮空襲の歴史が後世に残る作業として受け継いでいって欲しいと願っています。

「ピースうつのみや」代表の田中一紀さん

事務局長の佐藤信明さん

不発弾

焼け溶けたクギ

当時の国民衣服類

関連書籍

旧日本陸軍が使用した銃弾類

当時の罹災証明書