アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「地域レポート」No.19

FBM(ファシリテーション・ボール・メソッド)研究プロジェクト―谷口順子さん

FBMの研究を始めることになったハプニング

大学4年の教育実習のときに、宇都宮大学附属小学校の理科の授業で、温室の使い方、在り方の説明をしました。私は大谷石の縁のところに足をついてしゃがんでいました。生徒は外側で話を聞いていましたが、一人の男児が悪気ではなくて親しみからだと思いますが、私が話し終わって立とうとした時に、後ろから肩に手をかけて、ぎゅっと引いたんです。大谷石は幅が狭く、地面より少し高さがありましたので、不安定な状態で中腰で立とうと思っている途中で引かれたのですから、そのままドンと後ろにひっくり返り頭を打ってしまったのです。その場で意識不明。打ち所が悪かったというか、その事故が、大事な私の研究の振り出しとなりました。

多勢の子どもが心を痛め、学校中に心配をかけました。どんなことをしても完治しなければ…と思い、決意に支えられた奇跡の闘病でした。どこにも遺恨を残したくないという、強い希望が研究を生んだのです。

意識不明で保健室に運ばれて目が覚めたのは夕方でした。その日は自分で家に帰れたのですが、日を増すごとにだんだん脳のダメージが身体に出てきたのです。そのクラスに内科医の息子さんがいて、お父様が大変心配して入院させてくださり、いろいろと手当てをしていただきました。

入退院を繰り返して小康状態のなかで「仕方がないから教員採用試験を受けに行きなさい」と大学側に言われて試験を受けに行きました。幸いにも合格し、中学校の理科の教師として、医者の監視下で治療を受けながら人生のスタートをしました。

最初、宇都宮市の中学校に勤めている時に、「栃木市の西中学校で3年生8クラスを受け持っている理科主任が内地留学に出て留守になる間、理科の授業補充できる人間がいないから誰か教員を貸してくれ」と、宇都宮の教育長に栃木の教育長が借りに来たそうです。「お前行け」と言われました。新採用で入ったばかりの身分でありながら10月から半年間、宇都宮市から栃木市に通い中学3年生の8クラスを全部一人で教えるということになったのです。その時の栃木西中には理科の先生は他に4人いましたので「私が半分くらいならいいけれど、3年生を全部一人で教えるのは無理じゃないですか」と校長先生に言ったんです。そしたら豪快な校長で「俺は国語の先生に理科を教えろとは言ってない、責任は全部俺が取るから、思うようにやっていい」と言われ、本気で勉強したのです。その半年間は夢中でやりました。帰りは毎日終電車でした。あれから55年くらい経っています。栃木の6ヶ月間は若くて生き生きとしていて毎日が光っていたんだろうと思います。夢のようでしたが、その時の自分の気持ちが伝わっていたのでしょう、生徒たちが私を忘れないんですよね。私が具合が悪くなるとお見舞いに来てくれるし、入院してる時も、栃木から宇都宮まで来てくれました。その教え子たちが今年70歳になって「古希のクラス会」を開いて私を呼んでくれたのです。とても嬉しかった、本当に楽しかったです。養護学校に行ってからもいろいろありましたが、こちら側の気持ちしだいで子どもは結ばれていくのだなと思いました。

栃木市での職務が終わり宇都宮に戻って小学校に移りました。その頃に脳内出血の後遺症が出て、しばらくの休職期間を経て障害児の学校へ復帰しました。

後遺症の始まりは歩行障害でした。トイレに行こうとしてもまっすぐ歩けないで横に曲がってしまったりして、そのうちに歩けなくなってしまったのです。

浅草にいる母方の知り合いが東大病院に通院していましたので、主治医に話を通していただいて東大病院の脳外科で検査を受けました。脳下垂体視床下部にあんず大の血腫ができていました。昭和37年5月10日の事故でしたので半世紀以上前のことです。当時はいまのような脳血管造影の機器などありませんでした。首の付け根から丸箸ぐらいの太さのガラスの注射針みたいなものを入れて、重たい機械をお腹に載せられて、脳の血管にヨード剤が回るだけの圧をかけて、「一、二の三」でレントゲンを撮るんです。薬を入れたときとレントゲン照射が合わないと「もう一回」ってやられる。もう頭の中が火がついたほど大変でした。

再起不能、治療のすべなしと診断され、医療機関から全て切り離されてしまいました。でも、生きています。何とかせねば…と、東洋医学やいろいろお世話になりましたが、自分自身の身体の自覚がなくなっていきました。このとき動かない脚の下に母がビーチボールを入れてくれたのです。家族が揺らしてくれると脚の動きが感じられて気持ちが良かったのです。そうして誰もいないとき、ボールに乗せてもらっていた脚がひとりでに落ちたのです。その瞬間、私は「脚が動いた」と感じたのです。これが、研究の始まりです。

いろいろな繋がりの中で皆さんにお世話になりながら、「もうここで壁かな」という所を何度もくぐり抜けて、今日までくることができました。

取材を受ける谷口さん

退職後

主人と私は1歳違いなので主人が退職した次の年が私の退職です。その後は二人でのんびりしようと思っていたのでしょうが、私は再起不能と診断された身体のハンディを克服して勤めた養護学校の体験に、あまりにも素晴らしいことが一杯あって、記録もとっていたし研究もしていたので、このままではもったいないなと思い、学位論文にまとめるために埼玉大学の大学院に進学しました。主人は糖尿病でしたので、ずっと私が食事管理していたのですが、「定年になったんだから自分でやってね」と宣言。とにかく大学院に受かってやりたいことが燃えだして、家庭管理がおろそかになったせいでしょう、その年の11月に主人が心不全で倒れてしまいました。糖尿病でかかっていた病院に救急車で運ばれました。私は自分の研究で分かっていましたので、「こことここをこういうふうに動かしたい」と、主人を助けるために必死でしたが、「それをやったらいけません」と医師に言われました。しかし医師の目を掻い潜って内緒で手術できるところまでに回復させて、12月に手術をしました。11月2日に倒れてから50日間、どうやったら血液が順調に巡って手術が可能になるかと、直感的に必要な他動運動を続けました。その時は本当に勉強してきて良かったなと思いましたね。

その後、呼吸不全も併発した主人を15年間、大きな酸素と呼吸器を備えて自宅で介護しました。最初は普通に動けましたが、酸素を使うようになってからは主人から離れられなくなりました。そうすると家の中など主人の周辺しか動けないので私の運動量が減って筋力がどんどん落ちてしまいました。全身の筋力がなくなって骨と骨が擦れてしまっていたのです。大腿骨骨頭と股関節臼蓋の両方に穴が開いてしまうまで気付けないでいました。直ぐドクターストップがかかり手術をしなければなりませんでした。「主人を置いて入院できない」と医師に話すと、医師が主人の入るところをちゃんと探してくれましたので、安心して主人を預けて、人工関節への置換術を受けることができたのです。

2014年12月に手術をして、1月から塩原温泉病院のリハビリを3ヶ月受けました。2015年3月からは、また私が主人を介護するようになりました。私もそれなりに動けるようになっていましたので酸素ボンベから呼吸器まで全部持って、伊豆のほうに嫁いでいる娘の孫たちと交流するために温泉に連れていったり、大阪にいる主人の上司のところまで旅行に行ったり、最後はちゃんと良い思いもできて本当に良かったと思っています。主人は最後の年5月5日に退院してきて、嬉しくて酸素を使わないで家の周りをぐるっと散歩して、苦しくなり、自分で救急車を呼んで、その日のうちに退院したばかりのベッドに戻り、6日に昇天しました。77歳でした。私もやれることはやったので思い残すことはないですね。本当にいい時間を持って旅立ったなと思っています。

信念に導かれた快復

5月に主人が亡くなり、初盆も終わって一段落し、9月の彼岸の声を聞いた頃に足腰がとても痛んできて、気が抜けたのか、身体がダレてしまったのか、トイレに行くにも這っていくようになり、行き着いても便座に上がれない状態になってしまいました。

済生会病院で診てもらうと待ったなしで12月20日に脊椎管狭窄症(L4/5)の手術をしました。術後、排泄の感覚がアウトになり、びっくりしました。便意が分からないで便がこぼれているという現実をどう超えるか。気付かないうちに便が出ちゃうわけですから。「そんなはずはないって頑張っているけど、そんなはずないって言えないでしょ」と医者も看護師さんも目の前で起こっている現実を言うわけです。確かに言われるとおり駄目な私は、「いまは駄目だけど、ほんとはそんなはずはないです」と最後まで言いました。医者は「何パーセントかの人はそうなるんです。L4/5の神経をいじるとこうなることもあるんです。だから人工肛門になりますので」と言って胃腸外科の関係者をどんどん寄こして手術の説明に来るわけです。私にしてみたらとんでもない事です。「死んでもいいからやりません。神さまからいただいた命のルートを曲げることはできません。絶対手術はしません」と医者と背中合わせになってしまいましたが、その信念があって結局は自分で踏ん張って取り戻しました。5月20日にちゃんと便意を察知できたのです。この回復までは本当に苦労しました。奇跡的な回復です。何か大きな力というか、「天に守られているんだなァ」って思えました。本当にしみじみありがたいです。

行き詰ってこれでダメかなと思っている人や、現在抱えている身体状況に困っている人に出会ったら、私の体験を参考に、こうなんじゃないですか、ああなんじゃないですかと道を開いてさし上げられるような、そういうご縁が、また何かあるのかなと感じています。

亡くなられたご主人の写真を前に

ポイントでいい人に出会い、助けられる

埼玉大学大学院に入ったのは「サイバネティックス(人工頭脳学)」という学問を探求している研究室が、東大、九州大学、埼玉大学の3大学だけしかなかったからです。そこで一応ひとつの学問としてFBMを論文に書きました。2004年に大学院を修了しましたので、小さな足跡ですが確かなものだけは残してきたと思っています。

20代で外傷性脳内出血のため、植物人間になってしまったときの私の主治医は、元気になった私をその後も忘れないでくださって、リハビリテーション世界会議が日本で開かれることになった1988年に、「私たちの診断を覆して回復したのだから、リハビリテーション世界会議に出て自分の実践を報告してください」と言ってくださいました。「とてもできません」と言ったら、「世界会議の本番までに2年間あるからリハーサルさせてやるよ」と言われ、東北大学と富山大学の医学の研究会で世界会議で発表するのと同じ内容で2回発表させていただきリハーサルをしました。富山大学で行った時が「第3回リハビリ工学カンファレンス」というチャンスだったのです。その時のメインスピーカーが東大の鈴木良次教授で、私の発表直後の講話だったんです。壇に上られてすぐに「今の発表は僕の一生の研究がそのまま入ってます」と言ってくださいました。それで先生の講話が終わるの待っていて、楽屋に駆けて行き、「実はこういうわけで世界会議に出なさいと言われて、リハーサルさせて頂いたんです」と伝え、「発表の英文を見ていただけますか?」とお願いしました。

私の書いた論文は知り合いに頼んで学術専門の会社で英訳してもらったのですが、鈴木先生がサーッと斜めに見て「これ今発表したこと?」。「そうです」と言ったら「あなたが発表したことと、何にも関係ないことが書いてあります」と言われました。頭が真っ白になって足ががたがたして、それが8月3日のことです。9月5日が本番の世界会議というギリギリまで迫ってるときに、私が書いた論文が内容の違う英文になっているのが判ったのです。「この英文だけ聞いたら、来た人は誰もあなたの研究を受け止めて帰りませんよ」と言うわけですから…。私は気が遠くなるほど困ってしまいました。「僕でよかったら翻訳させていただきます」とおっしゃって引き受けてくださったのです。「こういう神秘的な巡り合わせが本当にあるんですね」。そのあともずっと鈴木先生は関心を持ってくださって、データをとってくださったり、ご指導をいただき続けました。この時ほど「肝心要のところで必ず良い方に会って次につないでいただけるのだなぁ」と本当に救われる思いでした。いつも必要なポイントで肝心な方とちゃんと出会って助けられて、次に繋がるという恵まれた体験をずっと頂いています。私は78歳にもなりましたが、このまま終わりではなくて、何か人様のお役に立てる場面がどこかで与えられるのかなとも思っています。いただいた恩はお返ししたいですからね。

みんなパーフェクトな生命(いのち)を貰って生まれてくる

今は性能のいい電子頭脳も使えますし、MRIなどの検査も立派な機器でやっていますが、機械で計れない生命の深さというのもあります。私たちの生命は治癒力、回復力を持って生まれてきていますから。将来に向かって、現在の希望をお話ししたいと思う一番大事なことは、「誰でも人という人は単細胞生物だった」という真理と「受精卵という一個の細胞から生まれてきた」という真実です。そして、「ひとりの人間となるまでは母の胎内で骨も筋肉も神経も全部自分で作ってきた」という現実です。全生命のシステムを遺伝子が持っているわけですから、本来自分の中にすべてがあるのです。「だから外から力を借りなくてもいいのよ」と、そこだけは伝えたいですね。そういう信念があったからこそ主人も15年看られましたし、医師に再起不能だと言われても、私は復起することができました。私が私の道を拓けたのは、「生命は本来全部出来るはず、もともとパーフェクトなのだから」という信念があったからです。

2001年に主人が救急車で運ばれたとき「動かしたら駄目ですよ」と言われましたが、動かさなかったら生命のシステムに通じないと、一生懸命減圧ボールで足の運動をさせたわけです。生命自身が復帰できる。生命は全体を繋ぐ力を持って働いているのです。「詰まったところだけ通じればいいわけですから、大丈夫ですよ」とみなさんに伝えたいのです。これからも残された人生、これ以上の回復はないと言えるところまで極めたのですから、絶対に大丈夫と言える気持ちで今が在ります。

一般には、人は自分で自分の先を限定してしまうじゃないですか、「仕方がない」と。そこで一歩立ち止まって、妥協することをみんなが止める道に乗り換えられたら、みんな生き生きするかなって思います。そんな新パラダイムを伝えるのがこれからの私の夢です。

ご自宅の池のある庭で

~~~~~~~~~

FBM(ファシリテーション・ボール・メソッド)の研究について■

ファシリテーション・ボール(直径の違う7種の空気量をデザインしたボール)に乗って、ふわーっと力を抜いてゆったりと……赤ちゃんがお母さんに抱かれた時のように委ねきるのです。このプログラムで活用するのは、月の満ち欠けや、潮の満ち引きを、厳密に実現している宇宙の力、重力です。

大人になると、心身を委ねるところがどこにもないので、ファシリテーション・ボールに委ねきって深く呼吸し、「自分の呼吸で生きているんだなぁ……」という真理を感じられるようになるエクササイズがFBMです。私たちが毎日無意識にしている呼吸が、学習のポイントです。あの時、何もできなくなった私が、呼吸だけは正常にできていたのです。

呼吸こそいのちなのです。自分の呼吸がどういうものか、どんなに大事なものかを、自然に体得するまで、心身を委ねきって自分を見つめ、自分を感じ続けるのがFBMです。

FBM体験を重ね続けて、小宇宙である身体の中に大宇宙大調和のシステムを映し出すのです。一人ひとりのいのちのシステムに、宇宙の共磁場が生まれるのです。心(意識)の働きによる生命情報システム変換法が、私の研究です。

昭和63年(1988)に「リハビリテーション世界会議」が日本で開催されることになった時に、82カ国から研究者が集まって来ました。その時整形外科の日本の医学界全部で考えても、日本のオリジナルがないという状況で、何とか日本のオリジナルを掘り起こしたいと総出で探していたようです。東大で私の脳を検査した際に、視床下部に血腫があるからもうこのまま治らないのではと思っていた主治医たちが、「自分たちの診断では絶対考えられない症状を克服したのだから、あなたの実践した通りのことを発表してください」とすすめられて発表したのです。

その後、「何がどうなるのか分からないが、確かに変わっている」と、東大の鈴木先生は私の障害児学校での実践研究に深く関心を寄せて下さいました。東京大学の工学部に、人間の頭脳に習って義手義足などを作るという計数工学科があるのですが、そこを退官なさるときに鈴木良次先生が出された『生物情報システム論(朝倉書店)』という教科書の人名索引に谷口順子の名を入れてくださいました。ファシリテーション・ボール・メソッド(FBM)で、確かに効果があるということは、障害のある子どもがこう変わったという現実を、鈴木先生は見て下さっていたのです。データ(ビデオ)を持っていくと、論文を書かなくても3ヶ月前の子供が10ヵ月後にはこのように変わっているという実態が全部手に取るようにわかるからです。私が今まで医学界で発表させていただいたのも、みんなフィルムで見せるのです。こういうことを、この時間、この期間続けたらこうなりました。という現実をお伝えするだけのことをずーっと続けていました。

主人が倒れて学会から手を引くまでは「運動療法学会」や「ホリスティック医学協会」等々で、ただの教員の身分ながら医師たちのプログラムの中に混ざって、いろいろと、何回か報告をさせていただきました。例えば、食べるものを持った手が、口まで届かない子が、書道の文字が書けるようになったり、描く表現をしなかった子が、絵が描けるようになったりと、自分自身の心が上向きになってくると脳の働きで手が動くんですね。訓練だけただやっていてもなかなか難しいのですが、手が思うように行かなくても、自分で自覚して、自分の脳が思うと、それに従って手が動くようになるんです。意識を変えることによってすべてが変わっていく。だから「絶対大丈夫」って思ったら大丈夫なのです。そういう単純な考えではありますが、約3000ケースのデータをとって学位論文にしていますので、FBMはやりはじめると楽しいと思っています。文字も書けなかった子がこういう風に変わりましたとか、夜と昼の違いがなかった子が一年経つと、ちゃんと昼夜を感じとり睡眠覚醒のリズムができて暮らせるようになるとか、脳波もこういうふうに変わりますとか、それぞれにデータを遺して来ました。FBMで「こういうエクササイズをやると脳の血流がこのように変わります」なども、脳波をとりながら専門の先生が一緒に研究してくれて、「これだけ効果があります」と示すことができました。

ISLIS(イスリス/国際生命情報科学会)10周年で第20回研究大会のときに、東京工業大学のコラボレーションルームで、研究者が集まった参加者の半分にFBMを実体験するワークショップをさせてもらいました。それぞれの専門の研究者たちが一緒に体験しましたので多角的に考察することができました。データを取りながらFBMがどのくらい楽しめるものかというのは、少しずつ事例を溜めてあります。いろいろなところに招かれて、FBMを実践した人数や場所なども、長い間記録を取っています。愛地球博の長久手館でFBMブースを担当したのを機に、「いのちの学校水脈」を開設しました。参加した方々の感想文なども溜めてあります。

谷口順子著 教育リハビリテーション FBMシリーズⅠ
『総合的学習の手引き 触れて 感じて 確かめよう』

~~~~~~~~~

FBM研究プロジェクト

〒320-0011 栃木県宇都宮市富士見ヶ丘1-15-1

TEL/FAX:028-621-4325