8月9日、栃木県宇都宮市の県総合運動公園憩の森にある慰霊碑前で、原爆投下75年目の慰霊式が行われました。県在住の被爆者や遺族ら約90人が参列して犠牲者の冥福を祈り、平和と核廃絶を誓いました。
県被団協元会長の中村明さん(89)は「慰霊碑建立から30年、すでに被爆者も少なくなっている。私たちが最後になるように核廃絶の運動に共に取り組んでほしい」と話しました。県原爆死没者慰霊碑を守る会設立準備委員会の谷博之委員長(77)は式辞で平和の尊さを訴えました。
慰霊式
挨拶をする中村明さん
式辞を述べる谷博之委員長
献花
式辞(全文)
75年前の今日、長崎で原爆が投下されたその日に、ご来賓のみなさまをはじめ、関係者各位には、ご多忙の中をご出席いただきまして、心から厚くお礼申し上げます。
現在、新型コロナウイルス感染拡大下での様々な制約がある中で、無事本式典が挙行出来ますことに、重ねて深く感謝申し上げます。
さて、今年も75回目の終戦日の夏を迎えました。それは同時に、広島・長崎に人類史上初めての原子爆弾が投下されてから、75回目の夏でもありました。
歴史作家半藤一利氏は、自身の著書『日本のいちばん長い日』の中で、当時の広島・長崎のことを次のように書いています。
「八月六日、広島の朝は、むし暑い雲もほとんどない快晴であった。七時九分、三機のB29がレーダーにうつり、警報が発せられたが、敵機は姿を見せず、三十一分に解除になった。敵機は偵察のため飛来したもの、とラジオは伝えた。やれやれという気持ちで、約四十万人の市民が、日常の行動に入った。
八時十五分。烈しい閃光とともに大爆発が起った。一発の爆弾が四十万の人間にもたらしたものは、<死>の一語に尽きる。広島市は瞬時にして地球上から消えた。」―――
「翌七日朝、アメリカからのラジオ放送はトルーマン大統領の声明として、『われわれは二十億ドルを投じて歴史的な賭けをおこない、そして勝ったのである……六日、広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じないかぎり、さらにほかの都市にも投下する』と伝えてきた。」(『日本のいちばん長い日 決定版』/著者 半藤一利/発行所 株式会社文藝春秋)と、半藤氏は歴史を振り返り述べています。
私達は、今改めてその時政府はそして軍部は、何をしようとしていたのか、厳しく問い直していかなければなりません。なぜなら、この両者は原爆投下の事実を国民に伝えず、ひた隠しにして最後まで、国民を道連れにして、徹底抗戦を叫んでいたのであり、そして皮肉にも、この無政府的混乱を止めたのが大元帥天皇陛下であったことは、先にもふれた半藤氏の著書にも、詳しく述べられています。
ポツダム宣言を受諾した我が国は、戦後さらに多くの難局を乗り越えて、経済復興・発展を遂げ、政治体制を整え、今日まで歩んできました。そしてあの死の町と化した広島・長崎も、世界に誇れる巨大都市へと発展を遂げてきました。それは、多くの先人達の血のにじむような努力で現在のような姿になったのであり、感動と勇気の歴史の積み重ねでもあったのでした。
しかし、これで全てが解決したのでしょうか。戦争の犠牲になって亡くなった人達や、傷ついた人達への償いは、果たして成し遂げられてきたのでしょうか。特に被爆者の方々への、心からの償いの具体的措置は、誠意をつくして取り組んできたのでしょうか。
現在、再び核による世界の緊張が徐々に高まってきている状況下で、非核三原則はこれからも貫いていけるのでしょうか。こうした大きな課題の現状は、失望と不透明感に満ちあふれています。
先日、広島地裁で言い渡された「黒い雨」訴訟では、84人原告全員を被爆者として認定し、国に手帳の交付を命じる判決が下されました。国はこの判決を真摯に受け止め、ただちに被爆者援護法の定める3号被爆者として認定し、手帳の交付を行うべきであります。
さらに、現在破壊しようとしている被爆建物「旧広島陸軍被服支廠」の、建物保存問題についても、ただちに取り組むべきであります。
私達は、こうした動きをふまえ、これからも世界で唯一の戦争被爆国の国民として、我が国政府や、全世界の人達に、平和の尊さを訴えていかねばなりません。それは、何よりも国内外の被爆者への、人道的支援を更に強めていく道につながっていくと確信をしているからであります。
本式典は、そのような過去の反省と将来への確固たる役割を果たしていく上でも極めて重要な式典であり、改めて30回目の記念すべき慰霊式として、そのことを共に誓い合うと同時に、重ねて原爆の犠牲になられた尊い御霊に哀悼の誠をささげて、守る会設立準備委員会を代表して、一言ごあいさつといたします。
2020年8月9日 谷 博之