アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「地域レポート」No.7

幻の記録映画『鉱毒悲歌』がついに完成 -蘇る『鉱毒悲歌』制作委員会-

何故、今「鉱毒悲歌」が世に出たのか。

1972年(昭和47年)宇都宮市に「宇都宮市自主上映の会」(会長:谷博之、会員約30人)が誕生しました。主に市中の映画館では見ることの出来ない貴重な反戦映画や、お蔵入りとなっていた映画を上映していました。

1973年(昭和48年)田中正造の闘いの映画「襤縷の旗」(三国連太郎主演)を2日間、栃木会館で上映した時は、多くの方々が鑑賞し、反響を呼びました。上映後の反省会の中から、もっと深く足尾鉱毒問題を掘り下げたいという声が上がり、「谷中村強制破壊を考える会」が結成されました。この会は足尾問題、渡良瀬遊水地、田中正造の歴史的役割等を学び、研究する団体へと発展しました。メンバーは足尾、渡良瀬川、旧谷中村と遺跡をたどり、旧谷中村村民や足尾の関係者との交流を深めていきました。

その結果、まだ現存する歴史的な事実と遺産を、何かの形で記録にとどめ、後世の人たちに伝えていかなければ、30年後、50年後には、もう何も残らない、全てが風化されてしまうと危惧し、自分たちには小さな力しかないが、今ここで映像としてその姿を残しておこうということになりました。

そして、1974年(昭和49年)、まだ足尾銅山古河製練所の溶鉱炉が、まっ赤に燃え黒煙をあげている足尾と、強制破壊された旧谷中村の廃墟の残る渡良瀬遊水地のヨシ原から、撮影に入ったのでした。

撮影は、会員の拠出金で全てまかなわれ、中には数年間にわたって給料とボーナスのほとんどをつぎ込んだ人もいたのです。しかし、北海道の佐呂間栃木部落への2回にわたる撮影を行った頃には、フィルムを買う資金もなく、製作スタッフの生活費にも困難をきたし、1年も2年も撮影の出来ない状態が続きました。

この映画で使われている映像は、ほとんどが1979年(昭和54年)頃までのものです。まだまだ撮り続けなければならない課題は沢山あったと思います。しかし、資金不足で制作は止まってしまいました。それから4年後の1983年(昭和58年)ようやく編集作業に入り、ナレーションや効果音を付け2時間40分の作品となりました。上映会をしたのですが作品が長すぎて意図が伝わりにくかったようです。そして、更に30年の時が流れ、2014年再編集した『鉱毒悲歌』は1時間43分にまとめ上げて完成しました。

映像に出てくる方の多くはもう現実には会うことの出来ない世界へと旅立っていきました。そうした方々がまだ存命の間になんとか世に出したい、世に問いたいと思っていましたが、そのことが実現できずまことに残念です。また、フィルムが長い間状態の悪い環境で保管されていたことで、大変傷んでいます。映像が見づらいことを深くおわび申し上げます。最後に、長い間ご協力下さいました全てのみなさまに重ねて心からお礼申しあげ、経過の報告にいたします。

尚、この映画の製作の過程で、当初この映画のタイトルを、ドキュメント「谷中村」というタイトルで紹介しておりましたが、途中から関係者の間で改題の話がもちあがり、議論の結果「鉱毒悲歌」となりましたことを、ご紹介させていただきます。

北海道佐呂間への入植

佐呂間移住の経過。

第1次

田中正造が天皇に直訴したことにより、谷中村に土地収用法が発動され、強制買収、強制立ち退きが執行された。

被害者がのぞむ解決ではなかったかもしれないが、曲がりなりにも急速な解決をみた。

その時たまたま北海タイムスの記者が下部屋村で北海道開拓移民を募集していたことに同調して、瀬下六右衛門を団長として66戸240余名の北海道のサロマベツ原野集団移住が決定した。

明治44年4月7日、栃木県庁の属官3名、下都賀郡役所から書記3名、日本赤十字社栃木支部より医師1名と看護婦2名が付き添って出発した。目的地までの道のりで、落伍者が相当数出ている。

大変な苦労ののち目的地に着いた一行は、近隣の農家に分宿し小学校内に事務所を設けた。さらにそこから4キロ離れたところに3棟の着手小屋を建ててもらい、その年の秋まで共同作業をしながら開拓の準備をした。

入植地はすでに200余に区画割りされていて、移住者は小山駅を出発する前に各々入植する区画番号を知らされていた。しかし入植者たちは、現地を見て少しでも生活に便利な場所を求めて、密集するような形で入植した。

第2次

第1次入植者からは、1年後には20戸の脱落者が出ていた。その穴埋めのため瀬下団長は栃木県にいったん帰り移住者を募った。その結果22戸の移住者が応募し北海道に渡った。

だがその翌年の大正3年にはさらに20戸の離農者と8名の除名者が出た。この時点で移住者はほぼ半数の98名余に減っていた。その後更に第1次第2次の移住者から48名余の脱落者を出したということは、酷寒と慣れぬ辺境の開拓の労苦、困難をうかがい知ることができる。

この地には、栃木の移住者の入植と前後して、山形県、愛媛県からも入植者がいた。

足尾の鉱毒予防工事

明治29年、政府は古河に対して「鉱毒予防工事の命令書」を出す。

内容は主に3点。

・坑内からの排水の処理。

・排石、カラミ、粉鉱の流失防止。

・製錬排ガス中の亜硫酸ガスの除去。

工事期間は150日以内とし、違反したときは直ちに操業を停止することという厳しい内容であった。

銅山は40日間操業を停止。

古河の鉱夫だけではなく、他の鉱山からも応援を呼んだ。

足尾町民は1戸当たり1人5割増しの賃金で人夫を募集。

それでも不足した。人夫は多い時で1日6~7千人が稼働し。延べ人数は58万人、賃金合計は47万円にもなった。(現在で17~50億円くらいか?)

材料

・煉瓦312万丁

・セメント1万5,000樽

輸送費と合わせて42万円

生活物資

・米4,400石

・味噌2,500貫

・醤油150石

・酒1,200石

・草履80万足

・蓑6,500枚

で15万円。

以上合計して104万円に達した。

一方銅生産減による落ち込みによる収入減は40万円。

現在の金額に換算すると約1,500億円近い出費になったといわれている。

その資金は、政府の補助金はなく、自己資金と渋沢栄一の第一国立銀行からの融資でまかなった。

予防工事の効果

予防工事は予定通り完成し、沈殿池と堆積場では一定の効果があったと思われる。しかし有害物を取り去るものではなく、その後も洪水のたびに被害は広がっていった。

製錬所から出る亜硫酸ガスを取り除く目的で建設された脱硫塔は技術として完成しておらず、効果はなかった。さらにレンガ造りの総延長566メートルの煙道は、山の上から亜硫酸ガスをより広範囲にまき散らしたため、渡良瀬川上流の樹木、草木を枯死させた。松木村村民は村を捨てて移住した。

 

『鉱毒悲歌』プロモーション http://youtu.be/QLz6rexcpf8

蘇る『鉱毒悲歌』制作委員会・谷博之委員長

蘇る『鉱毒悲歌』制作委員会の記者会見

編集し完成した映画『鉱毒悲歌』

旧谷中村

1974年「谷中村強制破壊を考える会」設立

作家 立松和平が告発

田中正造の闘いを最後まで助けた島田宗三氏に聞く

坑夫たちの墓

葦刈り事件

谷中遊水池工事

北海道栃木部落。開墾の苦難を物語る

蘇る『鉱毒悲歌』制作委員会

問い合わせ先:株式会社歩行社

TEL 028-624-0288