2002年10月、招待作家として参加したモスクワ展のオ―プニングが無事に終わり、私たち作家は初めて解放された気分になった。
モスクワの会場と宿泊施設で準備や打ち合わせなどタイトなスケジュールで動き回っていたのでホッとした。私も他のフランス人作家たちも街に出て、自由に動き回って人々や街並みに触れたかった。しかしオーガナイザーはまるで旧ソビエト連邦の方法のごとく、厳しくうまくコントロールしていた。そうでもしないと糸の切れた風船のようなフランス人作家たちの安全の保障はないからだろうと思った。
キリル文字(ロシア語)が読めそうで読めない。さっぱりわからないので、「どこそこのメトロを出た所で何時に集合」と言われても……。街の中で昼間から若者たちが安酒を飲んでいるのだろうか、目をトローンとさせながらフラフラしているのを見た。当時の法律では確か午後4時過ぎにならないとモスクワではアルコ-ルの販売が禁止されていたと思うが、どこからか自家製の安酒を手に入れられるし午後になるとお酒も買える。街を行き交う無職の若者たちは飲まずにいられない事情があるのかもしれないと感じた。驚いたのは、モスクワのメトロの出入り口にいわゆる「乞食」がぬかるみに座り込んで物乞いをしていたのだった。もっと乾いた場所でダンボールやビニールシートを敷くなどしたらいいのにと思ったが、トイレを探して立つこともいらずそのまま座って過ごすことができることや、または人々の憐みをそそぐこともできるのではないか、などと思いめぐらす光景であった。日本の敗戦の年に生まれた私は、幼い時にはよく目にしたのだが、モスクワでもパリ同様に多くの物乞いが目に付いた。
10月上旬のモスクワは雪が20cmほど積もっていて舗装や道路事情も悪かった。朝の通勤時間には、バブーシュカ(ロシア語でお婆さんの意味。フランス語でも使われるが、当時日本でよく言われていた「オバタリアン」風に使う)と言われる女性たちが酢ずけのキャベツだけ大きなビニール袋に入れて売っていた。ドイツやポーランド、そしてフランスのアルザス地方のシュークルートの酢キャベツみたいで、とてもおいしそうだった。
展示期間中の一時期に自由に出かけることができるようになって、モスクワの友人の作家を訪ねることにした私は、友人のフランス人作家と一緒にバスを待っていた。バス停の近くでバブーシュカがブリキのバケツに何種類かの花を売っていた。菊の花などの貧弱な花の中に、見事な大輪の真紅のバラが何本かあった。その美しさに私は息をのむほどだった。「このバラを買って2人で友人のプレゼントにしましょう」と提案して早速買った。見れば見るほど美しく立派なバラの花であった。パリに持って帰りたかったほど見事だった。まだまだ日程があるのでそれは断念したが、今でも大輪のモスクワのバラが脳裏に焼き付いて忘れられない。
展示会は大成功でたくさんのモスクワの要人やアーティストたちと交流して楽しむことができた。私たちはモスクワを去って10月18日にパリに到着。5日後の10月23日~26日に、モスクワ劇場占拠事件が起きて大変驚いた。それはロシア連邦内でチェチェン共和国の独立派武装勢力が起こした人質占領事件で、センセーショナルな事件だった。滞在中も何カ所かメトロの爆破事件があったらしいが、私たち作家は何も気が付かずうわさも耳にしなかった。私たちを不安にさせずに無事に展示会を成功させたオーガナイザーの厳しい制限が納得できた。
1904年の日露戦争時のポスター
1914年のフランス・ロシア・イギリス同盟のポスタ―
2002年10月31日のロシアの新聞記事で、劇場の惨事を伝えている