涼私は、1942年(昭和17年)3月に、旧満州国の山海関(しゃんはいかん)で生まれたと戸籍に記載されている。山海関は中国の歴代の皇帝が北方民族からの侵略に備え、「万里の長城」が澎湖湾(ほうこわん)に突き当たった中国と満州国の国境にあった。
父は三男であり、家を出なければならなかったので、母と結婚後、新天地を求めて満州国に渡った。そして、満州国の国境の役所の検疫関係の役人になり、1942年(昭和17年)に私が、2年後の1944年(昭和19年)に妹が生まれた。
その後、父は満州里(まんちゅりー)に転勤になった。満州国は当時のロシアと満州国の国境の街で、ホロンバインの大草原の真中にある街で、北京から北に2,300km、ハルピンから西へ935kmの奥地にあり、そこはロシアのバイカル鉄道と結ばれていた。
当時の満州里の人口は12,000人余で、満州人、ロシア人の外に、日本人が200人くらい住んでいた。
冬は零下30度になるが、春から秋にかけて果てしない大草原が広がり、ソ連軍の侵攻がなければ桃源郷であった。
生まれて数ヶ月の藤田。両親と山海関で
父と記念撮影(1歳の誕生日か?)