アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「遥かなる戦争と遠ざかる昭和」No.3

親子3人の過酷な難民生活

ソ連軍の捕虜となって

1945年(昭和20年)の8月、私たちは満州里(まんちゅりー)でソ連軍に包囲されて、父親は現地召集され、捕虜になり無蓋車に乗せられどこかに連れ去られてしまった。その6日後、日本の敗戦となった。

私たちは、一応はソ連軍の捕虜であったが、実質は難民生活であった。満蒙開拓団のように満人の強盗団に皆殺しに会ったり、身ぐるみを奪われることはなかったのは、まがりにもソ連軍の捕虜であったためである。無蓋車に乗せられ、日本への引揚港がある葫蘆島をめざして南下していった。

満州里から葫蘆島(ころとう)までは1000キロ以上離れていた。途中でどこか分からない場所で無蓋車が停止し、全員が降ろされ、寝る場所のあるところまで歩かされる。母親は妹をおぶい、荷物を持ち、私の手を引いて何キロも歩いた。私も泣きごとも言わずただ黙々と歩いた。幼いなりに理解した。泣いても、わめいても、地団駄踏んでも、駄目なものは駄目であることを。

長じて、平和、平和と1万回念じても、正義、正義と1万回叫んでも、反対、反対と1万回呪っても、その通りにはならず、神様や仏様に必死で祈っても、何も聞いてくれないことを知った。ローマ時代から現在まで戦争を止めない人類を見ると、ホモサピエンスとして同類を殺すことにブレーキをかける本能を、進化の過程で捨ててしまったとしか考えられない。チンパンジーはグループ同士で縄張りの争いはするが、皆殺しにはしない。

妹の死

私たちはソ連軍の捕虜と言っても中身は難民である。難民キャンプのような所に何週間も足止めされた。食べ物はアワ、ヒエ、コーリャン、何だかわからない雑穀をソ連軍が差し入れてくれたが、それをスープにして配られたこともある。食べ物が絶対的に不足するので日本人同士が身に着けた品物を出し合い、満人と、それらを食物と交換して飢えをしのいだ。

生まれて間もない赤子は栄養失調で次々に亡くなった。満人が日本人の子供をほしがるので、せめて子供だけは生かしたいとの気持ちから、泣く泣く子供を預けた母親もいる。この子たちが、後に満州残留孤児の問題につながっていった。略奪と暴行は定期的に襲ってきて、私たちは1日、1日を生き延びることが精いっぱいであった。

私たちはやっと奉天(ほうてん)にたどり着いた。奉天には満州全体の鉄道を管理する満鉄の本社があった。新幹線の母体となった特急亜細亜号は今でも“鉄ちゃん”の憧れの的である。その奉天には満鉄の社員宿舎が約300棟近くあったが、満人の暴動による襲撃で、財産を略奪のうえ放火され、住民であった子供、婦人、老人、残った職員ら1000人以上が殺された。

私たちはその残骸が残る街なかの、空き室となっている小学校で難民生活を送っていた。だんだん元気がなくなっていた2歳になる妹が、1945年(昭和20年)12月24日、栄養失調で死亡した。満州の1000キロの奥地から生き延びて奇跡だと言われていたが、力尽きた。零下30度にもなる小学校の凍てつく裏庭に、私は母と2人で小さな穴を掘り、妹を埋葬した。

「終戦を大隊長告げる-熱川省、朝陽奥地」シベリア抑留記録画集-関一男 画

残された一枚の妹「美智(7ヶ月)」の写真

藤田 勝春(ふじた かつはる)

藤田 勝春(ふじた かつはる)

1942年(昭和17年)満州国生まれ。1946年(昭和21年)3月満州から引き揚げ。1973年(昭和48年)弁護士開業。1987年(昭和62年)栃木県弁護士会会長。

宇都宮90ロータリー2011年(平成23年)度会長

社会福祉法人「こぶしの会」理事長

「宇都宮平和祈念館をつくる会」代表

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