「生き急ぐ」
私の父親は、1945年(昭和20年)8月6日にソ連の侵攻により現地召集になり一発の銃も撃たず、ソ連軍の捕虜になり、シベリアに連れて行かれた。国際法の戦争の捕虜に関する協定であるジュネーブ条約では捕虜を奴隷状態で労働に酷使することを禁じている。しかし、ソ連の最高指導者のスターリンは、自国民も食料がなく苦しんでいる、捕虜にやる食料はないから働けと命令した。
捕虜はタイガの森の中に道具だけ渡され放り出されて、寝る小屋から作らされた。捕虜になった人数は約60万人、6万人が死亡したと言われる。帰国できた人たちがその体験記を残しているが、画家の香月泰男のシベリア体験に基づく囚虜収容所シリーズには、囚人の絶望的な表情が暗く描かれている。上智大学教授の内村剛介はロシア語が出来たことからスパイと疑われ、スターリン時代のラーゲリに10年間拘禁され、やっと生還した。その体験記「生き急ぐ」を書いたが、それを読むと、労働者の天国のはずのソ連が収容所列島であったことが良くわかる。「生き急ぐ」はソ連で若くして自殺した反体制詩人エセーニンの詩の一節から取っている。内村が10年間心の支えとして読んだ詩集である。
父親の無念
私の父親は、1947年(昭和22)年2月22日シベリアの山奥のテルマ収容所にてわずか33歳で病死した。極寒の地である満洲里で、ソ連軍の捕虜になった親子3人の生死も分からず、少しずつ意識がなくなっていったであろう父親の無念さが良くわかる。1947年(昭和22年)の冬は特別の寒波がシベリアを襲い、多くの日本人が死んだ。生き残った者は、その後は、多くは日本に帰還している。
戦後、厚生労働省は「旧ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝」として、シベリアで死亡した人の遺族の墓参団の募集があり、私は2005年(平成17年)10月に参加した。まず、ロシアのハバロフスクに行き、シベリア鉄道に乗り1泊2日目にテルマ村についた。村にはホテルはなく、寝台車3輌と食堂車1輌を連結した列車を支線に停め、ホテル代わりとした。
村は貧しく、70年前に日本人が作った建物が学校として使用されていた。そこから古いバスで2時間。まばらなタイガの林の山の中腹に、木で作られた「日本人の墓」と書かれた小さな墓標が建っていた、遺族は、線香や花やお菓子、酒などを供えて手を合わせた。遺族は、父親や祖父を亡くし人たちであるが、一様に呆然としていた。とても人の住むところには見えなかったからである。
その後、さらに奥地の村の、日本人の捕虜の墓地がある場所を何ケ所か尋ねたが、その貧しさに愕然とした。これが社会主義70年の成果なのか、労働者の天国なのか。私達に熱っぽく説いた昔全共闘の、現在のお爺さんたちがこれを見たらどう思うか。しかし、後悔するはずはないか。後悔すれば自分の人生を全否定することになるから。
荒涼とした現地で父親の死を思い巡らす(筆者)
テルマ村の「日本人の墓」と書かれた墓標
テルマ村で宿にした列車
遺族の思いを込めた墓参
ある村の日本人の墓