アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「遥かなる戦争と遠ざかる昭和」No.5

中国残留孤児たちの孤独と絶望

「大地の子」

1945年(昭和20年)の暮れから1946年の初めには、日本へ向かう帰還船が出るとの事で多くの日本人が、満州の奥地から葫蘆島(ころとう)に命からがらたどり着いた。その人数は20万人を超えていた。満州の冬は寒い時には零下30度にもなる。多くの日本人が寒さ、疫病で死亡した。多くの子供も栄養失調で死亡した。しかし、日本からの引揚船は一隻も来なかった。

そのような状況の中で、満人(中国人)たちが日本人の子供を欲しがり、また、満人が日本人の子供を買いに来た。日本人の子供は頭が良いので使用人として使えるし、高く売れるからと聞いている。病気で弱り、日本に生きて帰れる希望がないと考えた親が、せめて子供だけでも生きて欲しいと考え子供を満人に預けたり、他の兄弟たちの食費にあてるためにわずかな金で引き渡した例もある。この子供たちが、いわゆる中国残留孤児である。

マスコミの報道では、満州孤児たちは親切な養父母のもと大切に育てられたと報道され、山崎豊子の「大地の子」が読まれ、親切な中国人のイメージが作られた。しかし、実態は日本人であることで差別され、ロクな教育も与えられず、馬車馬のごとくこき使われた。孤児たちは日本人であることから激しく差別されたので、日本に帰りたいとの望郷の念が強かった。

日中国交正常化交渉が成立したのは1972年(昭和47年)であるが、残留孤児は両国にとって負の部分である。日本政府に対し、残留孤児を日本に引き上げるように一部の人は声を上げていた。しかし、やっと両国の一致により中国残留孤児の日本の帰国と親族捜しが実現し、第一次の訪日団が日本に来たのは1982年である。この時、1945年の敗戦から37年が経過していた。

現在まで、孤児の訪日団として来日した人の数は約2700人であるが、ほとんど日本語ができず、孤児やその家族は、引揚後は生活保護で生き延びている。その二世や三世は、日本の社会に溶け込めず、「怒羅権」(ドラゴン)と称する暴力団体を作り、非行を繰り返し、新聞の三面記事に乗るようになった者もいる。1967年(昭和42年)から1989年(平成元年)まで中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ、一説では推定5000万人が処刑されたとされる。この中国社会の大激動で社会が不安定になり、満州残留孤児たちも歴史の波に翻弄された。

不条理な死

20世紀は、戦争の世紀といわれる。日本では、日中戦争、太平洋戦争があり、ヨーロッパではこの100年の間に第一次世界大戦、第二次世界大戦を経験し、約4000万人が死亡し、多くの街が崩壊した。ヨーロッパの市民はこの惨劇を体験し「神は死んだ」として日曜日に教会に行く人は少なくなったという。

アメリカでは国内戦は南北戦争しか経験していないので、神は市民の中に強い信仰の対象として生きており、日曜の教会は信者でいっぱいであるらしい。

ホモサピエンスの末裔であるという説からたどると、普通の動物が持っている「同じ種の動物は殺し合いをしない」との本能を、我々はある過程で失ってしまったと思われる。その身近な例が、1994年4月にルワンダの大統領の暗殺事件を契機に起きた、フツ族のツチ族に対する大虐殺である。わずか3ヶ月間でフツ族がツチ族の民族の老若男女を問わず100万人を山刀や棍棒で虐殺した。最近の調査で、この虐殺は偶然起きたものではなく長年の民族対立の結果で、計画されたものといわれる。しかし、現地にいた国連軍も、虐殺を知っていた世界各国も、その虐殺に対しどうすることもできなかった。

私が、戦争に巻き込まれた武器を持たない市民の不条理な死に疑問を持つようになったのは、父や妹の死がきっかけである。

戦車群に脅威-「シベリア抑留記録」関一男 画・文より

朝陽奥地より、山を降りて朝陽駅に。そして錦県まで列車移動-「シベリア抑留記録」関一男 画・文より

藤田 勝春(ふじた かつはる)

藤田 勝春(ふじた かつはる)

1942年(昭和17年)満州国生まれ。1946年(昭和21年)3月満州から引き揚げ。1973年(昭和48年)弁護士開業。1987年(昭和62年)栃木県弁護士会会長。

宇都宮90ロータリー2011年(平成23年)度会長

社会福祉法人「こぶしの会」理事長

「宇都宮平和祈念館をつくる会」代表

藤田法律事務所

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