船底の記憶
1945年(昭和20年)8月15日、日本が敗戦。満州にいた日本人は奥地から日本に引き上げるために、葫蘆島(ころとう)に命からがら結集した。昭和20年から昭和21年の冬は過酷な寒さで、集まった20万人から30万人の引揚者は、一隻も引揚船が来ない中で過ごすことになった。
多くの人が凍死、餓死、病死し、その為にここでも満州残留孤児が発生した。当時の朝鮮半島は38度線を境に北は北朝鮮やソ連軍が占拠し、南は韓国、米国が占拠していた。作家の故新田次郎の妻であり数学者藤原正彦の母である藤原ていは、3人の子供を連れ38度線を突破し、南から日本に引き上げた。その体験記「流れる星は生きている。」(中公文庫)はベストセラーになり、引き揚げの過酷さが綴られている。
葫蘆島では日本からの引揚船が来ないことから、当時の日本人会の役員らが北朝鮮から日本に密航し日本政府に引揚船の手配を直訴したが、当時の政府は、日本は無条件降伏したので船は手配できない、連合軍総司令官のマッカーサー元帥にお願いに行くようにとの回答であった。マッカーサー元帥は、満州で毛沢東軍と戦うために蒋介石の国民党軍を葫蘆島に運んでいるので、空いた貨物船に引揚者を乗せ日本に運搬することを承諾した。私にも古い貨物船の船底にゴザを引いて寝ていた記憶がある。そこで出された食事はオジヤであったが、1年以上も食べていない米にありつき、こんな美味いものがあったのかとの記憶は今でも鮮明である。
はじめて見る美しい国
我々の船は佐世保港に上陸した。引揚船の出口には厚生省の医師が待機していて、ソ連兵により妊娠させられた女性を堕胎棟に連れて行き、本人の承諾もなく強制的に、麻酔薬も使用せず堕胎手術を行っていた事、多くの堕胎した胎児を穴に埋めたが犬が掘り出すので、硬い木の箱に入れて埋葬した事など、当時の看護婦が体験記を残している。当時の堕胎棟の跡には、看護婦が建てた水子地蔵が今でも祭ってある。戦争と性の問題は古くて新しい問題である。従軍慰安婦の問題は今でも議論されている。
私が母親と共に日本に帰還できたのは、母親が健康体であり、私も健康であったことと、そして一かけらの幸運があったからであろう。私にとって初めて見る日本は、子供心にも木と緑があふれる美しい国であった。佐世保市から引き揚げ用の列車に乗って日本を縦断し、父親の故郷である宇都宮市にたどりついた。宇都宮市は、1945年7月12日の深夜の大空襲で宇都宮駅から傳馬町まで全て焼き払われ、焼け跡では市民がバラックを建て懸命に生きるために働いていた。
私が所属しているクループである「宇都宮平和祈念館を作る会」は、宇都宮空襲展を毎年8月上旬の3日間、宇都宮中央生涯学習センターで開催し28年になる。宇都宮市の空襲の実態を知ることにより戦争を知ってもらいたいとの希望で続けている。
満州地図-「シベリア抑留記録」関一男 画・文より
B29の来襲(絵葉書)