火の海
私が母親と1946年(昭和21年)夏に満州から引き揚げ、引揚列車で宇都宮に着いたとき、市内は焼け跡と瓦礫が残っており、住民は焼け跡に焼トタンや廃材を利用してバラック(簡易住宅)を建て、生活の再建に懸命であった。宇都宮空襲展を開催するについて、体験者から話を聞くと、空襲は以下のようであった。
1945年(昭和20年)7月12日は、夜になると雲が垂れ込め、夜の午後11時すぎに小雨が降り始まった。市民は、雲が低く垂れ込め雨が降っているので、今夜は空襲はないと考え、いつもはすぐ逃げられるように昼間の服装で寝るのに、この夜は寝間着に着替えて寝た人が多かった。
午後11時19分、突然、B29のプロペラの轟音と同時に空襲警報のサイレンの音が鳴り渡った。そして、バリバリと焼夷弾の落ちる音と、建物が焼ける音が同時に重なった。あわてて雨戸を開けると、周りは火の海で皆が逃げ惑っていた。2時間20分にわたり、B29、133機が、宇都宮市の上空を旋回し焼夷弾9,6456個を投下した。
宇都宮駅から伝馬町まで、すべてが焼け野原になった。逃げるいとまがなく、焼夷弾の直撃を受けて亡くなる人が多かった。また、庭先に掘った防空壕に逃げ込んで、焼夷弾の千度をこえるナパーム(油脂)の燃える熱に蒸し焼きになった家族もいる。後に空襲を受けた水戸市では、宇都宮空襲の教訓をうけ、防空壕に入るな、外に逃げろとの話が広がり、犠牲者を少なくした。
二荒山神社の鳥居は燃え尽きたが、社務所は奇跡的に残った。田川の幸橋には炎に包まれ逃げ場を失った人が大勢避難したが、周りの火に包まれ、川の中は酸欠で死亡した死体が多く浮かんでいた。空襲の翌日に遺体の収容作業がおこなわれたが、身寄りのない遺体は宇都宮東小学校の庭に安置された。
日本の敗戦を予想
死傷者数は、戦後の調査によると死者約620名 負傷者約1,128名となっている。被害面積は、宇都宮市3,205平方キロ、全焼住宅施設9,173戸、しかし、当時の宇都宮市役所が空襲で焼けた為、正確な調査がなされないままになっている。
終戦後、日本軍の資料は全て償却され、後に米軍資料が全て国会図書館に寄贈された。宇都宮工業高校の社会科の教師米山先生が宇都宮関係の資料を全てコーピして翻訳し、宇都宮平和祈念館に寄贈してくれた。
明治時代から宇都宮市は軍都と言われ、14師団や歩兵連隊、練兵場など多くの施設が軍道(今の桜通り)の西側にあったが、それらには1発の焼夷弾や爆弾も落ちていない。我々も不思議に思っており、空襲当時雨が降っていて、落下の標的を誤ったのではと考えた。
日本の敗戦後、宇都宮市に米軍を中心とした進駐軍が来ると、すぐに14師団等の軍の施設に駐留した。米軍は1945年(昭和20年)7月12日には日本の敗戦を予想していて、宇都宮進駐を計画し、軍関係の施設の爆撃を避けたと思われる。
国会図書館の資料によると、米軍は宇都宮空襲に際して、相当以前から艦載機を宇都宮市に飛ばして写真を撮り、軍の施設を残す作戦を考えていたのである。
物量のみならず作戦においても、日本は基本的に負けていたことが分かる。
敵機の機銃掃射に急いで防空壕に飛び込む(空襲数日後、宮の橋付近)
熱と炎を逃れ、田川に飛び込む市民(幸橋付近、向こうは宮の橋)