アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「遥かなる戦争と遠ざかる昭和」No.8

敗戦の混乱の中を生きて

「栄養失調」という餓死

この戦争で戦闘員、空襲による被災者、外地での死亡者は全部で200万人以上と言われている。全国の主要な都市に空襲があり、東京大空襲では約10万人、そして沖縄の地上戦、各都市の無差別な空襲などによる多数の犠牲者が出ており、更に原爆による広島市の10万人、長崎市の6万人と多くの犠牲者が出、日本の多くの都市は瓦礫と化していた。

私は、満州から母親と二人、生きていることが奇跡としか言いようのない難民生活を耐えて、日本への生還をやっと果たした。物心ついたときには、日本は戦争に負けており、私の人生は敗戦のみじめで過酷な生活を生きてゆくことから始まった。この苦しさが私の成長の記憶となり澱のように積み重なっていった。父親の郷里である宇都宮市は空襲で焼けて、瓦礫の中から市民たちが生活のために必死で生きようとしていた。

多くの餓死者もでたが、餓死という言葉は使わず栄養失調といった。同じことである。食料が極端に不足し、食料は戦中よりも厳しい配給となった。配給切符がないと食料が手に入らず、長い行列に並び、筋ばかりのさつま芋、水っぽいカボチャ、フスマで出来たパンなどの配給を受けた。しかし、それだけでは生きていけなかった。都会や町に住む者は、着物など金目の物を持って行き、農家でコメや食料と交換して食べ物にありついた。いわゆるヤミ米の取引であるが、法律で禁止されていた。ある裁判官はヤミ米を食べることを拒否して栄養失調で死亡し、新聞報道され、市民の哄笑のまととなった。

戦争にロマンはない

都市には空襲で両親をなくした子供の浮浪者があふれた。NHKのラジオで放送されたドラマ「鐘の鳴る丘」は、身寄りのない子供が収容された孤児院の物語で、多くの国民の涙をさそった。街角には、戦争で手や足を失った傷痍軍人が白い服をきてアコーデオンで軍歌を歌い、物乞いをしていた。乞食という言葉は死語になっているが、当時は1軒、1軒物乞いに歩いていた者もいる。

「奥の細道」に、芭蕉が奥州の平泉の戦場の跡を訪れ、唐の詩人の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」を引用して、「夏草や 兵共が ゆめの跡」 と読んでいる。しかし、近代の戦争は総力戦であり、軍隊ばかりでなく、軍隊の支えになっている産業、都会、市民を根絶やしにし、戦意を喪失するまで消耗戦を行う。もう、戦争にロマンはないのである。

当時、陸軍は、本土決戦を主張していたが、国土の焦土化を見た天皇が、聖断により御前会議において終戦を決定した。日本人は、戦争に負けた惨めな経験をした。この経験をどう生かすか、今後の議論が重要である。戦後60年を経過して、戦争の体験者は確実に減少している。

(文責 藤田勝春)

焼跡片付けに動員された生徒たち(空襲数日後、宮の橋付近)

着のみ着のまま雨の中を南へ逃げる市民(空襲直後、川田町一里付近)

藤田 勝春(ふじた かつはる)

藤田 勝春(ふじた かつはる)

1942年(昭和17年)満州国生まれ。1946年(昭和21年)3月満州から引き揚げ。1973年(昭和48年)弁護士開業。1987年(昭和62年)栃木県弁護士会会長。

宇都宮90ロータリー2011年(平成23年)度会長

社会福祉法人「こぶしの会」理事長

「宇都宮平和祈念館をつくる会」代表

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