昭和20年8月15日に終戦の詔書がラジオで発表され、日本は敗戦を受け入れた。そして、同年9月2日に戦艦ミズーリ号の艦上で、連合軍に対して降伏文書に調印し、連合軍の統治下にはいった。そして、昭和26年9月9日にサンフランシスコ講和会議で日本の占領が解除され、日本はやっと独立したが、それまでの間、日本は報道や出版など言論を検閲されていた。広島や長崎の原爆報道なども昭和26年になりやっと解禁され報道された。その報道写真は衝撃とともに今でも私の記憶にある。
連合軍のマッカサー元帥を中心とする進駐軍と呼ばれた軍政は、次々と日本の改革案を実行していった。進駐軍は、日本を二度と戦争のできない国にすることに腐心し、その第一に考えられたのは天皇制の廃止であった。これは連合軍側の当時のソビエト連邦とその衛星国が強く主張したものである。
アメリカ軍は日本においては本土決戦ではなく天皇制を残し、それを支えた基盤をなくすることに腐心した。その理由は数千に及ぶ神風特攻隊や、沖縄戦での20万人に渡る民間人を含めた死者を考えた時、日本での本土決戦の連合軍の犠牲者が多数にのぼることを考えて躊躇したのである。
進駐軍は天皇制を残すについて、天皇を支える基盤、すなわち明治憲法を改正し、天皇を象徴とし、主権在民、そして、軍隊を持てないように憲法第9条を置いた。その他、明治憲法がどのように改正されたかは、次回に述べたい。
日本の戦争責任を明らかにするために東京裁判があり、軍人ばかりでなく政治家も裁かれた。特にA級戦犯のみが注目されるが、東南アジアでは日本軍が占領した国々で、B、C級戦犯が裁判にかけられ銃殺刑になった。日本の戦争犯罪が次々に暴かれ、日本軍の蛮行が公になった。今でも南京虐殺、従軍慰安婦などの歴史認識がことあるごとに問題とされる。戦争に負けるとはこうゆうことなのである。
ドイツでは戦争責任はナチス・ヒットラーにあると断定され、現在でもユダヤ人と共にナチス狩りを止めようとしない。悪いのはナチスであり、ドイツ国民は戦争責任から免責された。日本では天皇の戦争責任があいまいなので、国民の戦争責任の所在もあいまいなままである。しかし、あいまいなままであっても神仏習合の1300年の歴史を持つ日本では、天皇制に対する国民の支持は高い。
ナホトカ港、帰国乗船-「シベリア抑留記録」関一男 画・文より
舞鶴港に-「シベリア抑留記録」関一男 画・文より