アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「インドネシアの海」No.1

はじめての東南アジア

1980年、夫アンリーのアフリカのナイジェリア勤務が終了し、次の勤務地がインドネシアの首都ジャカルタに決まった。私は初めての東南アジアの国でとても嬉しかった。それは単純に日本が近くなったからだ。

フランスの威信をかけた「アジア最新の国際空港をジャカルタに、パリのド・ゴール空港の技術とノウハウの粋を集め、そっくり応用した近代的空港を建設する」ということで、エンジニアの夫はフランスの会社から派遣されたのだった。

彼は現地雇用の人を指導するための準備として、すぐにテキストを購入してインドネシア語を覚え始めた。現地では片言でも話せるようになっていれば用が足りるのであった。私はあまり興味がなく適当に本をぱらぱらとめくる程度。フランス語のように発音での複雑さがなく、アルファベットを日本語のようにそのまま読めばいいような言葉に思えた。ナイジェリアより治安は良いはずだし、しかもインドネシアの首都である。予定では私の滞在は通算約2年半で彼は3年半だった。その期間であればと気楽な気持ちだった。常夏の国、南国の果物、海の幸と楽園のイメージがあった。

当時はパリからのジャカルタ直行便はなくシンガポール経由で、20時間以上かかってジャカルタ空港に到着した。近代的な綺麗な空港内に南国の植物や花が沢山飾られていた。

しかし花も果物も「プラスチックのテカテカ、ピカピカ、どうして?」と思って手で触って見たらそれは全て自然のものだったので驚いた。私たちが知っているいわゆる造花は、自然の植物や花の色と形をそっくり真似して造ったのだということに気がついた。こんなにも多くの種類があるのかと思うほど、たくさんの欄の花や、見たこともない色や形の美しい花々が並んでいた。安く売っていたので、思わず一束買ってしまったが、後で分ったのだが雑草のように道端に咲いているような花であった。果物も当時の日本やパリでは初めて見る物もあり、美味しそうなので早く食べてみたかった。

外はまるで日本の真夏のようで濃い緑で溢れていた。新たなインドネシア国での生活がスタートした。

1980年代のジャカルタ郊外の町で

緑あふれるジャカルタの街の公園

ジャカルタの市場で

安くておいしい果物

(つづく)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。