1980年代のジャカルタでは、庶民的のための屋根のついた大きな市場があり、いつも人々でごった返していた。見ているだけで面白く、飽きない風景の一つである。市場はあらゆる香りと色と人々の生き生きした声と顔が見える。1980年代当時の日本の八百屋さんでは見たこともない果物や野菜など南国特有のものがあり、片っ端から全部食べてみたものである。熟していて美味しく、しかも安価である。
この広い市場では牛、鳥などの肉類は何でもあった。最初は少しギョッとしたが、大きな熱帯魚のような色とりどりの魚があった。しかし豚肉がない。私達も豚肉は好きで、これさえあれば簡単に料理が出来るのだが、ここは東南アジア最大の回教国である。しかし数パ―セントは華僑の人たちもいるので、彼らはどこで豚肉を調達してくるのか?不思議に思っていたが、ある時この広い市場の片隅にこじんまりと隠れるように豚肉を売っている所を見つけた。何人か華僑の人たちがいて、のぞいて見たら豚肉を売っていたのだ。もちろん私も喜んでコソコソ買った。
国民の政治的不満が高じると華僑に向けられ、時々彼らの店の強奪やさらに虐殺があったことなどを聞いた。国政への不満解消の矛先を少数他国民に向けてガス抜きしているように思えた。こういうことはどこの国でも起こりうることであろうが、特に華僑の人たちは商売が上手く金持ちになっていくことへの嫉妬心などもあるように思えた。
ジャワ海やインド洋で取れる魚は刺身で食べられるような魚ではない。しかしどれも獲れたてでピンピンしていてとにかく新鮮だった。特に安かったのはカツオだったが、生臭くて私はあまり買わなかった。生きている真っ青な大きなカニも安く売っていた。茹でると赤くなり美味しかったのでよく食べた。
郊外に高いバナナの林があり、そこで切り出したバナナの木一本分のバナナを安く売っていた。一房に100個くらいバナナがついていた。食べたり絵に描いたりしたが、あれは最後はどうしたのだろうか?
食料は外国人専門のス―パーで大体のものが手に入るが値段が高い。米、味噌、醤油などの日本食品も少しおいてあったが、高いのであまり購入しなかった。
今でも思い出すのはレストランでの支払い方法である。例えば、魚の丸焼きのソ―スかけを注文すると、5、6匹が大皿に盛られてくる。その皿から二人で2匹食べたら、その分だけ払うというシステムだった。インドネシア料理は美味しく私たち2人の口にあった。中国料理のレストランも数多くありやはり美味しい。
日本レストランもあったので、たまに夫とディナーに行った。店の女性たちはインドネシア人で簡単な着物を着ていた。裾を開けてドシドシと外またで歩いてそっけない簡単な日本語で注文をとりにきた。私達は顔を見合わせて思わず苦笑い、味は覚えていない。
(つづく)