夫はジャカルタにいて私は6カ月前にパリで一人で出産したのだが、友人たちの助けによりどうにか息子の育児をしながら過ごすことができた。出産して5日後に退院、その日は友人がタクシーで駆け付け私と息子を籠に入れてタクシーに乗り込んで自宅まで同行してくれた。大学卒業後20代後半から38歳の出産まで、パリとナイジェリア(約4年間)に暮らしていたのだが、いつから日常生活に戻ったらいいのか、日本人は産後はどうしているのか、全く分からずに医者に聞いた。「あなたはアフリカを良く知っているでしょう、中腰で出産し、また畑に出るでしょう」。「私はアフリカ人ではないです」と答えた。
出産後は疲れ果てて家に戻っても1週間ほど横になって寝たり起きたりしていた。この間友人たちが息子を洗面器で洗ってくれたり、私にお弁当やサンドウィッチを持ってきてくれてとても助かった。夜中に何回か授乳をせがまれギャアギャア騒ぐので、3時間おきくらいに授乳し眠りながらベッドに腰かけていた私は息子を落としそうにもなった。息子が5カ月くらいの時、私は両手首が腱鞘炎になり、薬・鍼・灸・整体などいろいろやったが2、3日でまたすぐに悪くなり、一つの案を考えた。それは1週間手を使わないことだ。両手首を棒で固定して包帯を巻き全く動けない状態にした。オムツは両足と歯でやってみた。しかしこんなに足の指が使えるとは思わなかったので、新たな発見で嬉しかった。その時も友人たちがどんなに助けてくれたか計り知れない。そしてその方法で腱鞘炎は完治した。
首都ジャカルタに1年間滞在した後、500km以上離れたジョグ・ジャカルタという地域に移った。ここはジャワ島中部南岸に位置しインド洋に面している。乳白色に緑を混ぜたような色の海が広がっていた。ここにはサメがいて、聞いた話では夫と同じフランスの会社の社員がサメに襲われ片足食いちぎられたそうだ。私は泳がず夫の泳ぐのを見ていたが、あまりに遠くに行くので戻るように手で合図した。「サメに襲われたらどうするのー」と戻った夫に怒ったら、彼は「沖に行ってウンコをしてきた」と。私は「サメもノックダウンね」と笑ったものだ。
ジョグ・ジャカルタは緑の多い街でガムラン音楽や影絵芝居の発祥の地でジャワ文化の中心地。ここに息子のミッシェルを生後6カ月で連れてきた。飛行時間はパリから途中も寄って33時間以上もかかった。息子は籠に入れられ私の席の天井からぶら下げられた。何時間か置きにミルクを飲ませたりしていたが、私が途中で気分が悪くなり、隣の見ず知らずの若い男性に「すみませんちょっとお願いします」と息子を預けてトイレに駆け込んだ。その男性は「えっ」と驚いた顔をしたが仕方がない。とにかく無事に6カ月の息子を連れてジャカルタに着いた。
その後、10カ月頃になった息子が発した最初の言葉は日本語でもフランス語でもない。インドネシア人のお手伝いさんスーリーが話す現地の言葉「トリマカシ(ありがとう)」であった。
外国企業の滞在者は現地の人を採用しなければならない義務があった。敷地内のフランス人社宅の中で、彼女は私たちのために掃除、食事の準備、買い物、子守りのいわゆる日本の主婦業を全てやり、私たちの家の裏の小部屋で寝泊まりしていた。会社から支給される彼女の給料は私たちのレストランでの上級ディナーの1回分の支払いと同じくらいだった。私は若いインドネシア人スーリーに助けられながら約2年半の子育てをすることができた。
息子のパスポート用の写真、
私はまだ手首に包帯をしている。
夫アンリーと息子ミッシェル
ジョグ・ジャカルタの家で、息子と筆者
お手伝いさんのスーリーと息子ミッシェル、とても仲良しだった
(おわり)
*「ナイジェリアの太陽」に続いての「インドネシアの海」シリーズは、今回で終了します。次から新シリーズ「ヨーロッパの大地」を続く限り最後まで書きたいと思います。(在パリ/トモコ カザマ オベール)