アフリカ最大の人口を擁する国ナイジェリアは西アフリカに位置する乾燥地帯である。キャラバン貿易を通じてイスラム教(50%)を受容した北部と、熱帯雨林地帯でアニミズムを信仰し後にヨーロッパの影響を受けキリスト教(40%)が広がった南部。両地域との間には大きな違いがある。南部の二ジェール川デルタでは豊富に石油を産出するが、この石油を巡って内戦や内紛が繰り返されるなど、国内対立の原因ともなっている。主食であるマニオクやヤムイモの生産量は世界一である。北ナイジェリアに続くニジェール(フランスより1960年に独立)は北ナイジェリア以上にサバンナ(潅木地帯)が広がり、そしてサハラへと続く。
17世紀から19世紀にかけて、ポルトガル人、イギリス人を中心にヨーロッパの貿易商人たちが南北アメリカ大陸に奴隷を送り、ナイジェリアの一帯は「奴隷海岸」と呼ばれていた。
1960年にイギリスより独立。首都ラゴスは大西洋のギニア湾に面した最大の都市であった。91年に首都移転があり、国の中央部に新首都アブジャが建設された。方言を含め521の言語が確認されており、250以上の民族、部族が居住する。公用語は英語、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用のみが認められている。
私は1978年から83年の間、フランス人の夫と一緒に北ナイジェリアの大きな都市カノの近くの小さな部落ゴルワゾに滞在した。私達の結婚数ヶ月後のことである。彼は大型機械のエンジニアでナイジェリアに仕事のために行くことになったのだ。
後に聞いた話だが、フランスの会社はフランス人技術者やその家族が生活できるように、まず水の確保が最重要であったそうだ。専門家と水の確保のために数kmも深く掘り下げて水脈のあることを確かめて水道を作った。後に家族の住む家と集合ホール、小さなスーパー、学校、テニスコート、プールなどの施設をつくった。そのコミュニティーの周りは安全のために塀で囲み、門には見張り番を用意した。各家にも門番と庭の手入れする人たちを雇用し、家族が安全に生活できるように準備を整えた。この様な施設がないとフランスでは許可が下りないし、人びとも行かないのだ。
夫は世界中をエンジニアとして赴任するために、さらに英語力を磨きに何回かロンドンでホームスティしながら勉強をしていた。私は下から2番目位の英語クラスに入り、ロンドンは遊び気分だった。これからナイジェリアでどんな生活が始まるのか全く想像がつかなかったのである。はじめて行くアフリカを勝手な想像で「まあ嫌になったら帰ればいい」という気持ちだった。パリを目指してきた私にはちょっとした旅行のような気軽な気分でアフリカ行きを楽しみに待っていた。これからナイジェリアの5年間、生死を左右するような過酷な出来事や、想像を絶するような不思議な体験が待っているとは……。
パリは毎日アーティストの私に素晴らしい時と場所を与えてくれていた。私がTomoko Kazama OBERとなってからのはじめての33歳の春であった。
40年前のパリで作品を描いた頃。
絵は筆者作、「ボルドーのエーゲ海」(ミコノスにて)と「傾くノートルダム」
上がマニオク、下がヤムイモ
ナイジェリアの都市カノ
(つづく)