さらにナイジェリアの奥地に移動
夫の仕事の関係で北ナイジェリアのゴワルゾに住んで2年ほど経った時、ここから北東500キロのクワヤシャニ(北はニジェール国、東はチャド国、両国とも旧フランス植民地)に6ヶ月間の予定で引っ越した。ゴワルゾからは会社関係の半分位の人が移動した。トラック2台に家財道具全てを積んで到着した。もっと砂漠地帯と思って行ったら緑が多くて驚いた。見慣れない形ではあるが丘や鬱蒼としたサバンナが広がっていてホッとしたものだ。クワヤシャニはゴワルゾにいたアフリカ最大の民族集団のハウサ族とは別の種族がおり言語も異なる。私の家のボーイも村で寝場所を探して我が家の仕事に就いたが、言語が異なるので最初は少し不便を感じたようだ。何しろナイジェリアは約520種類の言語があり、英語・ハウサ語・ヨルバ語が公用語という国である。
市場での買いものはボーイと一緒に行き、私が英語で、例えば「このトマトはいくら?」というと、ボーイがハウサ語の話せる人を探して現地語に通訳してもらいお店の人に聞く。私⇒ボーイ⇒通訳の人⇒お店の人。こんなことをしていたら日が暮れてしまう。市場も小規模で少しの野菜と根菜類だけだ。幸いにこのフランス人居住区内には私たちのために小さなスーパーがあり、フランス人のとても人の好いおじさんが現地人を何人か使って精一杯商売をしてくれた。このスーパーは会社が用意したのだが、やはり足らない物だらけだがないよりましであった。そしてゴワルゾ同様に私たちの住む居住区に、学校、プール、テニスコート、集会所など作られていた。
「クワヤシャニ風景」油彩
鬱蒼としたサヴァンナ(森とサヴァンナの中間)
クワヤシャニの風景
エチオピア人の友人と移動民族ボロロ族(1)
クワヤシャニのフランス人住居区内の半分位の人たちは、初めて会う人たちで他の居住区から移動してきたか、またはフランスから直接来た人たちである。ここで私は始めてエチオピア人の女性と友人になった。しかし、2人の共通言語はない。フランス人の地質学専門家の妻であるが、彼女の顔や首にエチオピア人の独自の青い刺青が入っていた。彼女はこの刺青をとても気にしているようだが、私は「ステキよ」と言って気にしないように接していた。耳から腕には沢山の金細工で飾っていた。エチオピアも金の埋蔵量が多い国だが、彼女の話ではエチオピアの紅海の先にあるサウジアラビアは金が安く手に入るという。つまりある程度どこの国でも通用する金の財産を身に着けているので、内乱などがあっても身ひとつで逃げることができる。衣類はサラッとした半透明な布を幾重にも巻いていた。エチオピアは地理的にはナイジェリアから東にチャド、スーダン、エチオピア(直線距離でも3000キロ以上)と続く。
彼女はコプト教徒であることを教えてくれて、小さなコプトの聖書を見せてくれた。これをお守りのように肌身離さずもっているという。聖人たちの絵がところどころに入っていたが、独特のマンガのように目が大きくかわいい顔で描かれていた。
彼女たちと毎週、四輪駆動の車で、移動民族のボロロ族の人たちの絞りたてのミルクを買いに大きな瓶を持参してサバンナを走った。何週間かは同じ場所に丸い簡単な小屋を建てて住んでいるので、すぐにボロロ族と分る。
「中に入ってもいい?」と女主人に聞いて(何語も通じないが、身振り手振りで意志はお互いに通じる)小屋に入れてもらった。3畳くらいの広さで真ん中に焚き火があり、その周りにゴザが敷いてあった。このゴザで寝るのだ。小屋の中は何だか独特に臭いがあったので、上を見たら干し肉がつるされていて肉がボロキレのようにぶら下がっていた。
私が中入ると子供たちは怖がってすぐ物かげに隠れるが、好奇心旺盛な子どもたちはジーと私を見つめていて、その目は好奇心に輝いていた。日本の敗戦の年に生まれた私だが、小学生の頃、宣教師が私の家によく訪ねてきた。近所の子どもたちがやはり遠巻きに興味深々に見ていたことを思い出す。どの国の子どもたちもみな同じである。
遊牧民族からミルクを買う。前右エチオピア人の友人。左が遊牧民移動用の家。仔牛が見える
エチオピアの友人たちを自宅に招待(左からトモコの夫、エチオピアの友人、トモコ、フランス人地質学専門家の友人)
(つづく)