アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「ナイジェリアの太陽」No.12

フランス人居住区とカンボスのえこひいき

クワヤシャニのフランス人居住区の奥さまたちと

クワヤシャニに引っ越したが、まだ社宅が未完成で、1ヶ月ほど全員がトレーラー・ハウスに住むことになった。2DKで冷房とトイレ・シャワー、そして電気製品は揃っていた。1ヵ月後、グワルゾの住居と同様の広い家がすぐそばにできあがり、落ち着くことができた。

短期間をここで過ごすというので畑は作らなかったし、沼も近くにないので釣りもすることができずに、ほとんどフランス人居住区の敷地内で過ごすことになった。何十キロメートルか行くと隣国チャドの国境辺りに、アフリカ第2の大きさのチャド湖があった。アフリカ最大の湖は東アフリカにあるヴィクトリア湖であるが、他民族の地域なので用心して遠出はしなかった。私は時々一人で自転車で居住区近辺を走って気晴らしをしていた。また、居住区内にテニスコートができたので、テニスを覚えて会社の人たちとダブルスをよくやった。テニスは限られた敷地内で生活するストレスの解消にとてもいいことが分かった。

会社のスタッフはフランス人のカップルがほとんどだが、ここでは他にアメリカ人、チリ人、コロンビア人、エチオピア人、そして日本人である私とフランス人男性のカップルが住んでいた。

会社のここでのボス(総責任者)の奥さんの行動が、ダイナミックで幾つか思い出がある。彼女は四輪駆動車と馬を持っていて、両方をよく乗り回していた。たまに私の家に来ていろいろ話をしたが、ある時、彼女に「四駆を運転するから2人で市場に行こう」と誘われ乗せてもらって一緒に市場に行った。フランス人居住区の狭い世界にいるので、それを見ていた他の奥さんたちのジェラシーの目が突き刺さったが、次第に慣れて平気になった。私が自転車に乗って近くを回っていたとき、サバンナで彼女がさっそうと乗馬している姿に出会ったものである。

彼女はヴァカンスでフランスに帰るとき、四駆で「ここから一人で帰る」というのでびっくりして尋ねた。「サハラを縦断するのに地図もなく、道しるべもないのに、どうやって道が分るの?」と聞くと、「空き缶が落ちている所をたどっていけばいいのよ」とケロッとして言ったので、さらにびっくりした。

ある日、彼女は、みんなでホールとして使用している家の白い壁面に「あなたに絵を描いて欲しいの」と言ってきた。私は一日考えて、「下絵を私が描くから、参加できる奥さん方全員でやってほしい」と申し出ると即OKしてくれた。他の奥さんたちも「ボスの奥さんの意見だから」ということで、みんなでワイワイ言いながら描いてくれたので、ジェラシーの目から免れて親しみを持って接してくれるようになった。

ホールの絵は、ここでよく集まって食事会や飲み会をしたりダンスもするので、解放感のある遊びのスペースとして、ちょっとカジノのような雰囲気を出そうと思った。ということで、図案は誰でも知っているトランプの図柄にした。みんなで協力して描いたこともあり、ちょっと楽しいホールに変身した。もう40年以上前のことなのですでに朽ちてしまったであろうが、あの建物はどうなったかな?と時々思い出していた。

コロンビア人の友人と彼女の家で

私の家で。コロンビア人の友人が私のキャンパスの前で絵を描くポーズを

カンボスのえこひいき

居住区敷地内の小さなスーパーのフランス人のおじさんは『カンボス』と呼ばれていた。田舎(野原・野営地)のボスと言うことだ。彼はその前は船上のコックをやっていたそうだ。限られた材料と空間で行なう作業ということでは、ここでも共通点があるようだ。ある日、彼が私にそっと耳打ちしてくれた。「明日の朝スーパーの裏で豚を屠殺するからおいで」と。回教徒の多いこのナイジェリアの北部では、豚肉など見たことがない。長い間食べたこともなかったので、とても嬉しかった。次の日、3人だけ、彼のお気に入りのマダムがスーパーの裏にコッソリ来ていた。

豚は喉を切られて血抜きをした後、短い毛を火で炙り、その後、毛をジョリジョリそってから腹をさき、解体した豚肉を私たちは十分買うことができた。後から知った他のマダムたちは大変怒ったが、知ったころにはすでに何にも残っていなかった。フランス料理の本は持ってきていたので、私は豚の頭も丸ごと買って、伝統的なフランス料理のフロマージュ・ド・テット(豚の頭肉を香草や香辛料とともにゼリーで固めたもの)を作った。

カンボスはマダムたちに色々なお菓子の作り方を教えてくれた。熱帯の地でバターを使用する事は大変だが、カンボスは良く知っていて、バターが溶けないように冷たい大きな大理石のまな板の上で作業しながら、ていねいに教えてくれた。作ったクロワッサンやパルミエなどは私たちが作ってもとてもおいしくて、本職のパリのパン屋さん並みにできた。カンボスの腕前を改めて見直したほどである。

えこひいきの話では、パリのフランス語の語学校では先生が自分好みの生徒2~3人だけを対象に授業をし、他はそのおこぼれを聞くと言う経験をした。「平等に」なんてやっていたら効率が悪いし、先生にとっても授業が面白くないらしい。パリに住み始めた当初、私はフランス語の授業についていくのが大変だった。今よりずーっと日本人は少なかったが、幸いにも先生が何かと「トモコ、トモコ」と、とてもかわいがってくれた。私が「クラスのレベルが高すぎるから別のクラスに行きたい」と言っても、「大丈夫、ここにいなさい」と言って、1番前の席に移してくれたりした。逆に気に入らない生徒を「レベルが違うから」と言って、自分のクラスから追い出したりしていた。このようにフランス人が自己中心的に平気でえこひいきをするのを何度か目の当たりにした。

(つづく)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。