部族闘争の内乱は約3ヵ月続いたが、その後なんとか治まった。フランス人住居区の私たちの被害はとりあえずなかった。私は幸いにも内乱の何週間か前に市場や大きな町であるカノで肉類・野菜などの食料や飲み物などの買出しをした後だったので、日常の生活は困ることがなかった。会社の中でも、買出しに行こうと思った途端に内乱になり、食料のストックがなくてとても困ったという人もいた。私も友人から「ウイスキーをボトルの3cm程貸して」なんていうこともあった。
その頃ナイジェリア・フランス大使館の書記官が現地調査に私たちのところに来たので、みんなでホールに集まった。書記官の聞き取り調査で、みんなが口々に「なぜ助けに来なかったのか」と文句を言ったが、あの状況では助けにくるのも不可能なことは十分承知していたし、思わず鬱積していたものが吐き出されたのであった。
書記官はいろいろな事を質問したりして調査したが、「皆さんその当時はどう対処していましたか?」と私たちに訊ねた。
「私たちはここに集まり、どうしたらよいかいろいろ議論をしましたが、結局逃げることもできず、ここで寝ずに固まって過ごしました」
この私たちの答えに書記官は驚くべきことを言ったのであった。「ああ、そうでしたか、しかし決して集合したりして一箇所に固まらないでください。バラバラでしたら誰か一人でも助かり生き延びることができ、また情報も得ることができます」つまり集まると全員殺されてしまう恐れもあるからだ。強がりのフランス人達もこの時はさすがみんな口を開けてポケッとしてしまった。
私はそれを見ていて何という理論だろうと感心したり、さっきまで文句を言っていたフランス人がぐうの音も出ない状況に内心ニヤニヤしたり……。
内乱が終った数週間後、私は原因不明の病気になり体がどんどん衰弱していった。意識はあるが疲れがひどく、自分の身体ではないような感じだった。吐いたり下痢したり発熱したりのセキリ・エキリ・マラリアとは違う。これらもすでにかかったことがあったが症状が違かった。
カノの病院に行ったら、医師から「ここではあなたの症状に何の処置も出来ない、危険な状態だから緊急に本国へ」と今までにない厳しい表情で言われた。いつもの夏服にサンダルで病院に行ったのだが、そのまま直接空港に運ばれ「すぐ来るどの飛行機でもいいから」と乗せられた。たしかブリティッシュ・エアでロンドン行きだったかもしれない。席がガラガラだったので3席を取り、横になっていた。何故か夫が私の寝ている席まで来て「僕は次の便でパリに行くから」とだけ言って飛行機を降りた。私はパスポートはもちろん、航空券も何も持たずに手ぶらで乗ったのだが、こんな経験は初めてであった。
夫の会社の係りの人が100フラン札一枚を4つ折りにして私のポケットに入れながら「これは大事ですから」と言ったのだけは覚えていた。トイレもパンツが下ろせずにスチュワーデスに手伝ってもらって用を足した。自分の身体がどうなっているのか、またどうなってしまうのか想像もつかなかった。ただただ眠っていたかった。
カノの病院で(筆者イメージデッサン)
飛行機で緊急搬送(筆者イメージデッサン)
(つづく)