アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「ナイジェリアの太陽」No.2

ナイジェリア・ゴルワゾへ向かう

パリから飛行機でロンドンを経由してナイジェリアへ向かった。機上の窓から黄土に輝いて見える広大なサハラが、その砂地に所々潅木があるサバンナの中に円形の集落が抽象絵画のように眼下に広がる。何故かその時、サン=テグジュペリの「星の王子さま」の世界を空想していた。

ナイジェリア入国には黄熱病、コレラ、B型肝炎等のワクチンが必要であった。夫はさらに破傷風ワクチンも必要としていた。そして、毎日服用しなければならないマラリアの予防薬ニヴァキヌを大量に持参した。ニヴァキヌは副作用として健忘症になるということだが、ナイジェリアから帰国してパリでその後長く暮らしていて物忘れをするとニヴァキヌのせいにしたものである。(本当は歳のせい?)

300kg以上の生活用品と、さらに船便で数百kgのさまざまな物質を輸送した。それこそゼロからの生活が待っていた。雑巾やトイレットペーパーに至るまで、何も無い所へ1年分の生活必需品を持っていくという事は、想像以上にすごい量になるのがわかった。私は絵画用のキャンバスを10m1巻と絵の具を何kgか、その他、筆など絵を描くための必需品をたくさん用意した。

北ナイジェリアの都市カノに着き飛行機のタラップを降り始めた時、その暑さはまるで猛暑日にビニールでぴったり巻きつかれたような、今まで体験したことのないものすごい暑さを感じ、どこでどのように呼吸をしたらよいのか分らないほどだった。空港から車でさらに50km北のゴルワゾに着いた。凸凹道の左右はサバンナと幾つかのバオバブの木、所々に何かの植物で覆った丸い屋根と土壁で作られた集落が見えた。

私たちの敷地内はフランス人コミュニティーなのでフランス人のみしかいなかった。パリは人種のるつぼといわれるほど多国籍人種が集まるところなので、日本人の友人にも会えたのだが、その当時(1978年頃)は、まだフランス語も十分ではなかったのに、急に1日中フランス語のみの生活とボーイ(家の中の掃除や雑用の仕事で英語が話せる現地の人)に英語で指図しなければならなかった。他に家のまわりや庭の掃除の人と、戸外で夜中薪を燃やしながらの見張り番をする2人はハウサ語のみを話す。それぞれの家族は3人の使用人を規則として雇用しなければならなかった。

私のベッド脇には仏語・英語・ハウサ語の辞書とそれらの言語の参考書がいつもあり、生まれて初めて日本語を一言も使用しない生活が始まった。10ヵ月後フランスにバカンスで帰国した時、日本人と日本語を話すのに脳の回路を戻す作業といおうか、何しろ2、3日は大変だった覚えがある。

ナイジェリアは雨季と乾季があり、雨季にはそれこそ道が無くなりぐちゃぐちゃの赤土になってしまった。乾季には雲ひとつ無い青空だけで大地は全て枯れ果ててしまう。そして最高気温50℃という環境の中で生きるということがどういうことか経験した。これは脳味噌が湯だってしまうほどで、思考能力ゼロになるような思いであった。戸外のドアノブに気をつけないと手の皮膚が火傷して剥がれる。車のボンネットもうっかり触ったら大変である。室内のクーラーは1年中点けっぱなしであった。

住んでいるとき一度だけ気温が15℃になった時があったが、暑さに慣れていたので寒くて寒くて暖房が欲しかったが、もちろん暖房設備はない。

敷地内のフランス人社宅は会社の大型自家発電装置から送電されているので、一応文化的といわれるような生活はできるが、水道から出る水は濁った茶色の水だった。濾過機を通してそれをさらに沸騰させて、やっと飲めるまでにできるのだが、手間ひまかけなければ手に入らない水の一滴の有難さが身に染みたものである。以来、今でもパリにいてほんの少しの飲み水も捨てられずにいる。

写真キャプション「フランス人コミュニティーの敷地内で撮影」(1978年)

写真1:作品「サバンナに浮かぶ集落」(Tomoko画/1979年)。飛行機から初めて見たナイジェリア集落の印象。実際の大地の黄土が白色になっているのは、暑すぎるナイジェリアで私の頭の中が真っ白になっていたことにもよる。アフリカを通して抽象画に移行した時期と重なる。

写真2:ボーイと彼の仲間と家の裏の台所のドアの所で。左の黒シャツの人がボーイ。ボーイは掃除、洗濯、アイロンがけ、料理、その他もろもろの家の中の仕事をする。彼は20歳位で妻帯者だが、「後にはお金ができてから2人目の妻をもらう」と言っていた。モスリムでは妻は4人までもてる。英語が少し話せるので外国人の職場で働け、この村では高給取り。私の家のボーイになる前は学校の先生をしていたが、ボーイの方が高給であったので応募してきたとのこと。

写真3:後に私は野菜畑も作るのだが、家の周りや庭で畑への水あげや戸外の掃除などをする人と。後ろの小屋は夜間に家の見張りをする人が中で火を燃やしながら夜番をする小屋。乗っているドラム缶は屋根の重し。左奥のドラム缶でゴミを燃やす。奥の白い建物は学校。自転車の人はコミュニティーで働いている人。

写真1

写真2

写真3

(つづく)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。