結局、この北ナイジェリアに通算4年半滞在した。以前書いたように10ヶ月滞在し2ヶ月の休暇でフランスに帰国するというサイクルで過ごしてきたが、夫の仕事がいよいよここで終了ということが決まり嬉しかった。苦労していろいろな事があって、ここまで生きてこられたこともありほっとした。しかし、この地ともお別れと思ったら、さまざまな思い出がよみがえり愛着が出てきた。
フランス人居住者たちとの最後のパーティが行なわれたり、ポツポツと同僚たちが帰国したり、引越しの支度中もあり、何かとせわしいときでもあった。
私の提案で、夫の現地の部下10人をお別れの食事に招待した。メインは代表的なナイジェリア料理で鳥のアフリカソース煮である。鳥肉をトマト、玉ねぎ、オクラ、クサヤで煮込むのだが、これらは現地で一年中手に入る食材であった。この料理は私が覚えた唯一のナイジェリア料理でもある。ボーイと一緒に買出しに行き、ビールや米も沢山買った。夕方私の家の周りに村の人たち、老人、若者、子供たちが沢山集まり遠巻きに地面に座りこんでいた。なぜ、みんながいるのか私には意味が分らなかったが、後に分かったことだが、ここでパーティーがある事を聞きつけた村人が、おこぼれにありつこうということだった。台所の小さな窓からふとどき者が入り込んで料理を盗もうとするのを、ボーイが棒切れで窓から追い出していた。
招待者はみなよそいきの服装でやってきた。彼らは大きなラジオを持参し、アフリカの音楽を大音量で流していた。ビールを飲み、鳥料理を嬉しそうに食べてくれた。彼らはお祭りのようにリズミカルに踊っておしゃべりしたりしながら楽しんだ。
彼らのリーダーが北ナイジェリアの首都カノからカメラマンを呼んできていた。私たちとの最後の日に記念の写真を撮影したいということだった。外国人女性と一緒に、しかもホームパーティーの席で写真を撮ることなど生涯ないだろうということで、全員が私と一緒写真を撮りたいということだった。今になってみれば、とても貴重な写真となった。
パーティーの終わり頃に気付いたのだが、なんと、みんなの紙皿にはほんのひとつかみだが、ご飯や鳥の皮や骨が残されていた。後ほど分かったのだが、これは外に座り込んでいた人たちのためであった。彼たちはパーティが終わる頃、外にいる人たちに残しておいたものをあげていた。少しでも分け合う精神が村の中にあることを感心して見ていた。しかし、これがすごい取り合いになってびっくり、アフリカに生きる彼たちの現実の厳しさを再び知らされた別れの日であった。
その後、夫の仕事はインドネシアのジャカルタに移ったのであった。
(おわり)