アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「ナイジェリアの太陽」No.4

食料を求めて(その2)

ナイジェリアの土で畑を耕し野菜を作る

ナイジェリアの土で畑を作って耕し、パリから持ってきた種で野菜を作った。暑い土地だからもしかしたら夏野菜だったら作れるかもしれないと、ナス、トマト、ピクルスに使う小キュウリ、ピーマン、セロリ、サラダ菜などの種を蒔いた。畑は、私たちの居住区内の家の周囲にたくさん土地があるので、休日に夫がブルドーザーで土を柔らかく耕した後を、現地雇用者である庭番に土盛をしてもらった。小さい田んぼのような形を幾つも作り、周りを10cmくらい土を壁代わりに盛り上げて、水をその中に入れて他に漏れないようにする。そのような畑作りは水が無駄にならないようにする現地の方法だった。

あまり広くすると私の負担が増えるので4m×7mくらいの畑に留めた。いつも50℃の暑さを頭に入れて、戸外での作業を考えるとこのくらいの広さで十分だった。しかし庭番が水を入れる仕事と野性動物や村の家畜を追い払う仕事をしてくれたお陰で随分助かった。何しろ、日本でもフランスでも畑仕事をしたことがなかった私が、まさかアフリカで畑仕事をするとは!食べるためには動物の解体から畑作りなど何でもやる気になる。

最初の頃の作物はヨーロッパの土地でもこの程度だったら何処でもできるくらい貧弱だった。セロリはいつまでたってもマッチ棒くらいだったが、それを口に入れると味も香りも強烈でセロリ本来の味のように思えた。

ある日、畑に分け入ると足元に長さ30cm、直径5cmくらいの小キュウリがゴロンと転がっているのを見つけてびっくり。全ての植物が背丈くらいになり、葉っぱもガサガサ生い茂りすごい畑となった。ナイジェリアの太陽は野菜をどんどん成長させ、見る間に畑というよりは鬱蒼とした小ジャングルのようなオアシスに変えてしまった。次第に大きくなった葉っぱをよけながら中に入って、色づいた野菜を毎日収穫した。我が家だけでは食べきれず、遊びに来るマダムたちにも分けてあげたが、フランス人は日本人と比べると野菜に対する関心は少ないように思えた。要するにフランス人にとって生きることは、肉とチーズなどの乳製品そしてワインを確保することが重要であるらしい。

庭で、柵の向こうに村の少女が頭に土がめを載せて遠くまで水を汲みに行く

小さな枠の畑に水を張っている

種から茎、葉が成長してきた

少し収穫できて嬉しい。現地の人たちのようにトマトをかごに入れて頭にのせる

蜂蜜や野生動物を売る人たち

いつも行くレミンガドの市場で私達夫婦の好きな蜂蜜がたまに売られていた。売り手は村の長老のようなアラブの白い服装で威厳のある老人だった。やはりこれは特別な食べ物としての事なのか。カルバス(フランス語でひょうたん、これを乾燥した容れ物)に蜜蝋とその中にいる死んだ蜂ごと売っている。広口のビンを持って行き買ったが、やはり値段は高かった。この蜜を採取するためには、専門の人が高い木に登り、蜂に用心しながら苦労して取ってきたのだろう。コーラなどのビンも洗われて市場で売っているが、ガラスビン類は貴重品である。

居住区内まで売りにくるものもおり、たまに買うこともある。例えば落花生(殻付きを一応こう呼ぶ)の皮をむいて炒って塩をかけたピーナツをジュースビンなどに入れたものやホロホロ鳥など、現地の人にとっては高い商品ではある。何のビンかわからないので最初は躊躇したが、そのうち慣れて平気で買うようになった。

普通は落花生を一つまみずつ売っている。麻薬のハッシシもイギリス製の紅茶と同値段で一つまみずつ売られていた。暑さ除けと食べなくても満腹感を呼ぶ栗に似たコラと言う実も売っていた。私達のバスの運転手がこれを少しずつかじりながら運転していたので、もらってちょっとかじってみたが、渋いだけで美味しくなかった。夫はコラは心臓をやられると言っていた。やはり感覚麻痺させる麻薬のような物であろう。

吹き矢で野生動物を仕留め、何匹か棒の先に吊るして売っていたが、これは買わない。何日もサバンナを歩き回り獲物を仕留めて来る。彼らは村人よりももっと粗末なボロボロのシャツを着ていた。仕留めた動物の腐敗が早いので臓物はすぐ抜くという。

遠くでサルを片手でぶら下げて売っている人を見たときは一瞬驚いた。ちょうど人間の赤ちゃんをぶら下げているように見えたからだ。猫くらいの大きさの灰色のねずみに近い動物を売り歩いていた人もいた。食料としてのサルも大ネズミも買う気にはならなかった。

アフリカの果物も短い季節だけだが、私も名前も知らない果物が売られていた。どれも完熟していたので美味しかったが、残念ながら日持ちがしない。特にマンゴーの種類の多さと美味しさは最高だったが、食べると手や口の周りにアレルギーの赤い発疹ができて痒くなった。3日くらいで発疹が消えるので、しばらくしてまた食べるとやはり発疹ができて痒くなる。それを繰り返していたが私だけに出るアレルギー反応だった。

村の子どもたちは木の実がなる季節に木に登って小さな黄色い実を食べていた。「枝から口へ」という私たちが忘れていた自然の状態を思い出させる光景であった。この実も食べてみたが苦くてまずかった。しかし、これが野生の木になる実の本来の味なのだろう。今でもその苦い味はわずかながら私の脳がナイジェリアの土の匂いと共に覚えている。

トマトが一番早く大きく育った。手前はナスでまだ収穫時期ではない

カノの街で

市場の食器売り(ひょうたん乾燥)

(つづく)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。