アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「ナイジェリアの太陽」No.9

過酷な環境の中で生命を繋ぐ

過酷な環境の中で生命を繋ぐ

私は自転車で敷地内を出て周りを散策するのが習慣になった。近くの村で人々が普通の生活をしている様子を見たいと思ったからだ。藁葺き屋根の円形や長方形の赤土の家が固まっているところで足を止めた。

村の女性達が外に集まって臼の中に穀類を入れて、杵で籾殻を除くためにトントンと突いていた。「私にもやらせて?」と身ぶり手ぶりで頼んで突かせてもらった。しかし、この杵が重く大きく持ち上がらないのだ。長さ70~80cm太さ10cmくらいで、上下が少し広がっている硬い木の真ん中が少しへこんでいて、ここに両手をあて上に何センチか上げてストンと落とす、これを続けて何回も何回もやるのだが、私はたった2回ほどで手が上がらなくなってしまった。すぐ「無理」と身振りして、彼女たちに杵を返してしまった。彼女たちはケラケラ真っ白い歯をみせて大笑いした。この笑い声が独特で喉のどこから出しているのか、今だに忘れられない音だ。杵のこの重さがないと突いて籾を取ることができないのだ。赤ちゃんを腰に広い布で結わえていたからまだ若い女性たちだ。

村人はだいたい12~13才で結婚し、20歳までにたくさん子どもを産むが、「5歳まで育つ子どもはそのうち何人いるのだろうか?」という環境であった。当時の平均寿命は40歳くらいだったので「日本人やフランス人の半分位の人生かな」と思ったものである。しかし、そんな過酷な食料事情と環境衛生(母体も関係すると思うが)の中で、部族の生命は細くとも脈々と続いている。

村の子どもたちはとても元気で明るく、目がキラキラしていて健康そうに見える。裸の子はいないがシャツ類はブカブカのものやツンツルテンのもので、赤土にまみれている。まるでワカメのような服を着ている子どももいた。男の子は半ズボンか、回教徒の白い幅広のズボンのような物で、女の子は着飾って明るい布を腰に巻いている。裸足の子やタイヤのチューブで作ったサンダルや古い運動靴のような物を履いていた子どももいたが、雨が降ると大人も子どもも履物を脱いで、履物の保護のために頭に載せる。そうしないと大切な履物がドロドロになってしまうからという。

そんな光景を目の当たりにしながら、何でも自由に物が手に入る日本やフランスの生活が思い出されたが、ナイジェリアの現実の生活の中では、日本やフランスの生活の方が不思議に遠い過去の時代のように思われてしかたがなかった。

村の子供達と

家畜にあげる草刈りをする子供たち

穀類をついている村のお母さん(水彩)

(つづく)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。