小藩三河田原藩一万二千石の年寄役(家老)末席を務めたサラリーマン武士渡辺崋山は、一流の文人画家としての別の顔を持っていたが、修身の教科書に載る少年期の苦渋をバネに大成した克己の偉人として、また蛮社の獄での逮捕・入牢・国元蟄居・自刃との晩年の壮絶なドラマの主人公として、本人在世時の著作物や備忘録、書簡類等の原資料も数多く伝存している。
根本史料には、父定通が草した「渡邊氏家系」をはじめ、間近で崋山を見ていた巣鴨の老公三宅友信公の「崋山先生略伝補」(明治14年)があり、女婿松岡次郎の「渡辺家系譜」「全楽堂記伝」、椿椿山の事件記録「麹町一件日録」がある。崋山自筆の「退役願書之稿」(天保9年)にはその貧困と闘った生い立ちが綴られ興味深い。
崋山には、特徴的に、他の絵師に倍する量の、懐に常時忍ばせ見聞きするものを書きとめ写生をなした雁皮紙の冊子類があった。三宅友信著『崋山先生略伝補』には、「平生雁皮紙小冊を懐にし、公廨に入ると雖も末だ嘗て舎てず、或は行路中、或は公務に出る肩轎中と雖も眼に歴るものあれば、随て模写せざるなし、此小本積で幾ど等身に至る」とある。それぞれ客坐掌記・寓目録などと名付けた備忘の雑記帳・手控帖であるが、中でも、 『全楽堂日録』(文政13年、日光奉行となった藩主の随行)、『四州真景図』(文政8年、静養のための利根川水系旅行)、『游相日記』(天保2年、友信公母堂お銀さま取材の三河旅行、原本焼失)、『毛武游記』(天保2年、三宅侯旧地三カ尻調査旅行)、『参征録』(天保4年、藩主に随行の田原行)、『客参録』(天保4年、国元田原滞在記)、『参海雑志』(天保4年、伊勢の神島など船航、原本焼失)は、主たる旅の紀行日誌として、『辛巳画縞』『壬午図稿』『発未画稿』は小下絵冊として、『守困日歴』は蟄居中の日記、『翎毛虫魚冊』は蟄居中の写生冊として、特に注目されるものである。
また、渡辺崋山の人と芸術についての後世の論述は、評伝・芸術論等その数思いのほか多く、相見香雨、西村南岳、人見少華、森銑三、菅沼貞三、吉沢忠、鈴木進、藤森成吉、真尾剣堂、小澤耕一、佐藤昌介、加藤寛二、ドナルド・キーンの諸先達研究家はもとより、河野元昭、別所興一、日比野秀男、金原宏行、そして私上野憲示ら戦後生まれの研究者等々があり、さらに山手樹一郎、杉浦明平ら諸氏の小説や戯曲まで含めると、19世紀以降の著名人の中ではトツプクラスの域であろう。
これまでの主な展覧会としては、田原の崋山文庫や田原町博物館の企画展は別として、昭和30年「渡辺崋山特別展観」(東博)、昭和47年10月「崋山百三十年祭記念遺墨展」(東京美術倶楽部)、昭和61年10月「渡辺崋山展」(豊橋市美術博物館)などが知られている。
「一日画を作らざれば一日の窮を増す。ただ身の窮するのみか、上は二母の養を欠き、下に弟妻の慈を欠く。余の画するは恰も農夫が田を耕すこと漁夫が漁ることの如く、まさに歎ぜざるをベけん也。」(文政1 1年『日省課目』)と絶えず自らを鞭打って精進を重ねていた渡辺崋山。もとより、家計を助ける等の内職に始まったその画道修行は、白川芝山(町絵師)、金子金陵(康之公の息女の嫁ぎ先大森勇三郎公の臣)と師事し、「文晁五四歳 崋山十七歳入門」(『崋山先生漫録』)と記録にあるとおり、金陵の親先生江戸南画の巨匠谷文晁の門を叩いてのち、めきめきとその才能を発揮するのであった。
前掲の『退役願書之稿』には、「八歳より日勤の奉公仕候間、朝夕僅かなる暇にて画を学び、初午燈籠或は絵馬之類を認め候て、右貧を助け候のみを心と致候。・・・早や初老近く相成、終にー箇の画師の如く相成候」とある。
晩年は、一流絵師としての自負を得てか、「予がからだは燧石箱程の家老、味噌用人に毛の生へたる、十分事成た処が掌程の方田舎也。予が手は天下百世の公手、唐天竺迄も筆一本あれば公行でき申候。・・・」(天保7年7月7日真木定前宛書簡)との口上が何とも小気味よい。
(文星芸術大学 上野 憲示)
崋山関係図書1
崋山関係図書2
崋山関係図書3