アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「おもしろ日本美術3」No.4

列強の脅威の中での日本の行く末を案じる開明派の苦悩―自叙伝の体をなす渡辺崋山の『退役願書稿』―

『退役願書之稿』は、天保9年(1838)の初頭、崋山自筆の田原藩家老職辞職願の下書きであるが、その前半部は自叙伝の体をなしている(一部崋山の思い違いもありか)。

「・・・その兄弟皆幼少にて、七人ほどもこれあり、ただ母の手一つにて老祖・病父・私共、その日を送り候ことゆえ、・・・貧窮はもっとも甚しく、筆紙に尽し候処にはこれなく、これにより弟共は寺へ奉公に遣わし、また出家せさせ、妹は御旗本へ奉公に遣わし、その寒苦艱難の内」と口減らしがため貰われていった弟妹を振り返る。

なかでも弟熊次郎(定意)については、悲しい思い出として、「幼少の弟を私十四歳ばかりの時、板橋まで生き別れに送り参り候時、雪はちらちらふり来たり、弟は八、九歳にて、見もしらぬあら男に連れられ、跡を振りむき振りむき、わかれ候こと、今に目前に見え候如くにござ候」と語る。そして、「其のもとは皆至貧至困罷成、無策無術罷成候上・・・」と一重にすべて貧困なるがゆえと唇を噛む。母親に言及しては、「私母、近年迄、夜中寝候に蒲団と申もの、夜着と申もの、引かけ候を見及不申、やぶれ畳の上にごろ寝仕、冬は炬燵にふせり申候」と蒲団らしきものを羽織って寝たためしがないと感慨を語る。さらには父親は病弱ゆえに「高料の薬種薬礼、日食之麺類等に事欠、畳建具之外、大抵質物に置尽し、猶借財親類共にも借尽し・・・」とて、母が僅か南鐐一片(12銭5厘)の少額を借りんがため、弟を背負って遠くまで赴いたとも添える。

田原藩1万2千石の貧乏小藩で、参勤交代や幕府より課される賦役や相次ぐ飢饉のあおりもあって減俸につぐ減俸と、家老職(年寄役)末席に列する定府(江戸上屋敷の裏門脇長屋住まい)の重役の家臣家とても、八人兄弟の長男(5男3女)という子沢山で父親は病弱という状況下、家族の日々の暮らしは貧窮そのものであったという。

また、同年3月蔵書の献納を申し出た『進書趣意書』には、

「・・・さり乍ら燈火苦困之余に出、紙々皆私之膏血に御座候間、徒に蠧腹に葬るも残念に付、何卒私同様貧苦之者貸読為致・・・」

と、生活貧窮の中で何とか入手した自らの血肉に値する愛着のものゆえ、同じような貧乏少年の利便に活用してほしいとの崋山の思い入れが吐露されている。

そんな中、崋山は、谷文晁の写山楼の塾生通いはもちろん、絵を志す同志の「絵事甲乙会」や、太白堂莱石の俳句の会、尚歯会など開明派の会等と、自主講座的な寄り合いの勉強会を組織しすすんで参画する。そして、貧困の中で苦学した自身の体験を踏まえ、絶えず、青年教育の支援の大切さを訴え、鎖国下といえども西洋事情にアンテナを張り、列強による植民地化の恐れや日本の行く末を案じては、真摯にまた誠実に行動したのであった。

なお、上記『退役願書』の提出を崋山に決意させたのは、藩主の世子友信公を一途に支え忠義に尽くしてきたものの、文政10年(崋山35歳)康明公逝去にともなう、友信公廃嫡、姫路藩酒井家から迎えた康直公藩主就任にある(藩政窮乏の打開策)。友信公(巣鴨老公)の復統はならず老公付、藩譜編纂の命を受け、気持を切り替えざるをえなかったのであろうか。友信公の息男㐰太郎君を次の世子との約を取り付けその師範を務めている。そして、その矢先の天保8年(崋山45歳)の弟五郎の死。崋山は意を固め、その年の12月無人島渡航願書を提出、翌年初めにこの退役願の原稿を草している。そして翌天保10年3月の蔵書献納(進書趣意書・目録が残る)に続き、『退役願書』の正式提出に至るが、みごと却下され、皮肉にも、5月に至って目付鳥居耀蔵仕組む『蛮社の獄』で逮捕入牢となったのである。

(文星芸術大学 上野 憲示)

渡辺崋山の『退役願書稿』

崋山の西洋事情勉強会スケッチ

崋山の手控冊所収の蘭書関係の記事

上野 憲示(うえの けんじ)

上野 憲示(うえの けんじ)

1948年、大阪生まれ。

東京大学文学部美術史学科卒業。栃木県立美術館学芸員。東京大学、清泉女子大学などの非常勤講師(美術史学・博物館学担当)を経て、現在、文星芸術大学学長ならびに芸術理論専攻教授。美術史家、美術評論家として活躍。

著書

『鳥獣人物戯画(日本絵巻大成六)』(中央公論社)、『渡辺崋山の写生帖』(グラフィック社)、『ハイビジョン鳥獣人物戯画』(ハイビジョンミュージアム推進協議会)、おもしろ日本美術1(文星芸術大学出版)、KAKIEMON おもしろ日本美術2(文星芸術大学出版)、他。