崋山は俳句の宗匠太白堂の知己を得て、自ら俳句を詠み、俳句関係の版本『桃下春帖』『いわい茶』『華陰稿』『月下稿』等の表紙やカットの筆をとっていた(蛮社の獄後は椿山に委ねる)。また、俳画はもちろん戯画略画の洒脱でいきな味わいを好み、自ら描くことも多かった。俳画は俳句の師匠や俳句好きの旦那衆が戯れに描いたところの素人絵に発するが、稚拙ながらもほのぼのとした訥々たる味わいを持つ、今のニューペインティングにいうへたうま的なものが好まれた。
それも、蕪村や呉春、抱一など本格的な絵師が参入するようになり、また大雅や寒葉斎らの軽いタッチのうちにシャレた雅味を封じ込める軽妙な筆が評判を得て、稚拙な持ち味そのままに高い洗練性を誇る優品が数多く生まれた。
そもそも、崋山の俳句への関わりは一通りでなく、太白堂五世、六世それぞれと深い付き合いをしていた。太白堂一家とは父巴洲の知り合いであった五世太白堂加藤萊石(初め山口桃隣、崋山『寓絵堂日録』に肖像あり)のころから親しい間がらで、次の六世太白堂(江口孤月、崋山は「華陰兄」と呼ぶ)の代に跨って二十余年間、俳句の世界にも積極的に身を投じていた(俳号は桃三堂支石)。『桃下春帖』天保八年冊に「見に出たる事はわすれて柳かげ」との句を寄せ太白堂との交誼に関する識語を添えている。
『桃下春帖』は各冊百丁余りで、ほぼ毎頁に崋山の絵を版下としたカットで埋め尽くされており、また、崋山が版下を任された太白堂の年始廻りの配り物の四角奉書色刷りの俳画も数多く知られている。
崋山の俳画帖については、晩年の『俳画譜』が秀抜で、田原蟄居中に崋山の信奉者である鈴木與兵衛のために俳画の手本として描き与えたものである。崋山歿後與兵衛は、版に起こして世に公刊。明治にはコロタイプの複製も出ている。
『俳画譜』の自序に、「俳諧絵は唯趣を第一義といたし候。・・・此風流の趣は古き所には無く、瀧本坊、光悦など昉りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉めおもしろく覚え候。かれこれ思い合描くべし。すべておもしろくかく気あしく、なるたけあしく描くべし。これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立振舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流は見え候通、この按排を御呑込あるべし。」とあり、自らの確固たる俳画論を披歴している。絵は野々口立圃、英一蝶、松下堂昭乗、森川許六、与謝蕪村、本阿弥光悦等々崋山が推挙する俳画の名手の法に従った倣画を連ねて適宜コメントを添えている。原本は尼崎のY家所蔵。
(文星芸術大学 上野 憲示)
『俳画譜』自序
『俳画譜』倣蕪村俳画
俳諧集『月下稿』『華陰稿』