渡辺崋山は、「客坐掌記」と通称する手控冊をこまめに記しており、それが亡くなった時には背の高さまであったと言う。
用途から、自らの本画の小下絵を収録した小下絵冊、各地各所で寓目した書画を記録として写し留めた過眼録、さらに今でいう純粋な写生冊と、大きく三種類に分類できる。画家の貴重な制作記録となる小下絵冊としては、『辛己画稿』(一八二一)、『壬午図稿』(一八二二)、『辛卯稿』(一八三一)などが数点知られている。これらを除いた大半が、寓目・過眼の記録冊であり、千葉県の素封家浜口家所蔵の二十冊の『客坐縮写』もその一部である。冊中には草筆のクロッキーや俳画に通じる洒落た略筆画も数多く出てくる。浜口家の客坐掌記の内の一つに、松崎慊堂の誕生日の宴のスケッチがあるが、その経緯が『慊堂日暦』中にも記されていて、そのあまりの迫真さに驚いたとの慊堂のコメントもある。
『客参録』『全楽堂日録』は、過眼録の一種であるが、むしろ紀行画文冊(旅行記)というべきもので、片や崋山が藩主に随って国元田原まで赴いた時の、また片や日光奉行に任命された藩主に随行して日光を訪れた時の記録である。前者は、隊列の中に馬に乗った自分自身をも描き、「渡辺登」と注記している。どちらも洒脱な筆でのびのびと活写している。
さて、かつてコロタイプの複製も作られた『刀禰游記』なる紀行画巻がある。代表作『四州真景』を描かれた文政八年(一八二五)崋山三十三歳の同時期の作品で、世話になった銚子の大里桂丸に贈った一巻と自らの手元においた一巻の正副二本が知られている。前者は、崋山歿後百年祭記念の『錦心図譜』掲載の一本であり(作品番号七九)、大里家にそのまま伝えられていたが、戦災で焼失してしまったという。後者は、『藝苑叢書』中の一冊として二分の一大の複製が作られておりその詳細を窺い知ることができる。
両本とも、その書体が崋山らしくないということで、一部に否定する向きもあったが、そこで紐解くべきは、当時、文政八年の手控冊類であった。幸い浜口家の二十冊のまとまった『客坐縮写』中、その「第五」は、船の舳先の図から旅行の記録が展開され、ずばり、この『刀禰游記』はもとより、名宝『四州真景』の成立にもつながる貴重な房総旅行の紀行日誌である。
冊中、崋山が銚子の豪商豊後屋に逗留し、所蔵のコレクション等を模写する中、なんと三十九頁にも亘って情熱的に描きとめた一図に、宝井其角(一六六一~一七○七)の『一瞬行』(「舛屋源之丞持ち来たる」とある)の写しがある。これを見るかぎり、『刀禰游記』のその特徴的な書体は、「乱筆は神仏ののりうつりかきしとかヲ云」と崋山が評する其角の螺旋バネのような筆跡に似せたものと判明。しかも、後者の詞書中、「前橋風土記云刀根川出於士峯西越後界」との『翎毛虫魚冊』などの註記にも共通する崋山の見慣れた階書の註記四行が織り込まれ、正しく崋山真筆との自己アピールが添えられている。
なお、『一瞬行』そのものは、確かに其角の元禄十年秋の事蹟として『句空庵随筆』に記載があるものの、元禄十二年の江戸大火で日記・句稿が焼失し、その復元作業の中で、同十四年二月刊行された著作集『焦尾琴』(同年初版、寛保三年再版)の内に、これを再編成したものとして、「早舟の記」との名で収録されている。内容は、「一日琴風亭に遊んで二丁こぐ舟の」と、琴風亭を訪れた其角が、中国赤壁の故事にならって風雅な隅田川の舟遊びをした、その折の感興を綴った句文である。
そこで、改めて崋山の『刀禰游記』にスポットを当てると、巻末には「文政乙酉のとし仲秋、良夜たまたま雲はれて、すぎし遊びを思い出し、忘れぬうちに其あらましを記し、大里ぬしの一笑を博むといふ。わたなべのぼる」とあり、銚子逗留中の崋山は、ふとしたことから土地の富豪大里桂麿と近づきとなり、俳人蓬堂を加えた三人で利根川に舟を浮かべて十五夜の月を江上に同様な遊びを楽しんだものと判る。江戸に戻った崋山が九月十五日、仲秋の名月にこれを回想して画巻にまとめ、世話になった大里氏に旅の恩義の答礼として贈ったとの次第であろう。
カットの一は崋山が桂麿に所蔵の書画を見せてもらい美術談義に花を咲かすところ、二は崋山と桂麿が俳人蓬堂を誘い出すところ、三は利根川対岸の景色、四は小舟の中で盃片手に悦に入っているところの計四図である。
(文星芸術大学 上野 憲示)
『刀禰游記』
其角『一瞬行』(崋山手控)