アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.1

タスキをつなぐ ~言葉で心をつなぐ~

正月は箱根駅伝にラグビーと学生スポーツ花盛りであった。録画した箱根駅伝を繰り返し、しかも早送りで見るという変な友人もいるが、次走者にタスキを渡す使命を担った選手たちが、疲労困ぱいの極みで次々と中継所に倒れ込む姿は、確かに何とも言えない。

ラグビーも一方的なゲーム展開になると、形勢不利なチームの選手たちの表情に味が出てくる。そしてノーサイドの瞬間、互いの健闘を称え合う姿がまた麗しい。

翻ってわが国。来年度予算は92兆円。大半が借金である。そのツケが次世代に何をもたらすか。財政規律を失った、と言われるが、倫理観を失った国も、予算なる金の奪い合いに狂奔する国民も土砂崩れ状態で歯止めがかからない。身近な医療機関を守るためコンビニ受診を控えようといった掛け声もなく、いつでもどこでも最高の医療を求める権利ばかり主張し、万事において今の日本には遠慮がちな「タスキをつなぐ」という発想が薄い。

こうした傾向は、思考回路の停止、或いは思考渋滞と言ってよく、心身ともにお疲れモードの典型的な症状である。何を考えても堂々巡り、焦りばかりで先に進めない。わが国の経営状態は病気か、堕落か、爛熟か。

箱根路で先を行く走者を、あるいは芝の上でディフェンスラインをごぼう抜きする元気な学生たちを見ていると、国の熟年高齢のトップたちよ、いい加減にタスキでもボールでも若者たちに渡してしまえと言いたくなる。

「おらは死んじまっただ~」の北山修博士はある講演で、最近の医者は芸がないと嘆いておられた。私たち医師も政治家と同様、言葉というタスキで患者さんの心をつなぐ訓練と用心深さが必要なようである。

冬のハートインクリニック

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。