平成7年頃だったか、宇都宮で久々に会った小川さんが「いい物件が見つかった」という。物件とは、東京六本木にある恐ろしく古いマンションの部屋のことで、彼の友人の情報なのだが、まだ自分の目で見ていない、そのうち一緒に行ってみようと誘われ、ハイと返事した。
老後は六本木に山を買って木を植え、牛を飼い、地を耕して里芋を収穫し、芋の子汁で一杯やる、というのが私たちの夢だった。発案者は小川さんだ。動機は、「俺たちのようなシティボーイは、若いうちは宇都宮や秋田の田舎で暮らせるが、老後はやっぱり都会がいい。都会といえば六本木に限る」というようなことであった。昭和56年、長かった学生生活とライブハウス『仮面館』に別れを告げ、渋々故郷の秋田へ帰る私への、はなむけとも慰めともつかない小川さんの別れの言葉でもあった。
1 宇都宮済生会病院(2008年1月)~見舞ったら今回も元気だった~
2 宇都宮のレストラン(2008年3月)~2ヵ月後に再会して翌月の来秋が決まった~
その後、彼は新潟の苗場スキー場で肝臓破裂の重傷を負い、輸血後肝炎に罹る。しかしエネルギッシュに働くことができるほどに回復、私は秋田で医者稼業を始めた。やがて彼は随想社(出版社)を興し、私はへき地の病院を巡りながら艱難辛苦に耐え、昭和の御代はバブルの平成に替る。六本木俳優座の裏付近で牛を飼うのも難しいことではないような気分が漂う時代であった。平成7年とは、そのバブルが怪しくなり始めた時期で、私の方は子宝4人のバブル真っ盛りであったかもしれない。古いマンションの話は立ち消えとなってしまった。
3 やってきましたハートインクリニック(2008年4月)
4 男鹿半島入道崎にて(2008年4月)~私の長女が悪戯で作ったらしい~
平成の30年の間、小川さん入院の報に何度か慌てて宇都宮へ駆け付けた。ところが会ってみると、せっかくだから一緒に晩飯を食おうというのが常で、まるで狼少年である。肝炎、肝硬変、肝がんと教科書通りに進行していた肝臓は、がんが見つかる度にいわゆる「もぐら叩き」療法で息を吹き返す。その間に彼より健全に見えた仮面館仲間の方が次々鬼籍入りし、私まで3年連続で食中毒肝炎、潰瘍吐血、ひき逃げ事故と危うい入院が続き、小川さんより先かと覚悟したこともあった。
今年の夏、秋田はやたら暑かった。8月のお盆過ぎ、秋田市のアトリオンで私が企画した催し3日間の最終日、今夏最高の40度に達したその日に、小川さんは逝ってしまう。会場で千葉克介氏の作品を眺め、小川さんも今頃はこんなお花畑かと思った。茶臼岳、三斗小屋、ランプの灯りで輪読した奥の細道、長野善光寺、須坂、仮面館、ポリ公とドモリ事件、土佐源氏、暗黒舞踏、男鹿半島とナマハゲ、阿仁の異人館、角館武家屋敷など記憶の断片が走馬灯のように今も頭の中を行きかう。
いかに楽をして暮らすか。こんなテーマをそこらの凡人より激しく追及しているのに、我々はなぜこんなに働くのか。苦労して生きるのは誰でもできる。楽をしようとすればするほど忙しい。佐々木君、この矛盾をどうしよう…。老後は六本木、山、牛、里芋…約束は消滅した。もはや老後はあの世で暮らすしかない。
5 11年前の小川さんを偲んで真似てみる(2019年11月)
6 秋田男鹿半島(2018年9月15日)
7 菜の花と鳥海山(千葉克介氏作品)~学生時代に小川さんと秋田の鳥海山に登った~