アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.105

サクラを見る会・秋田篇~教授とテキヤの交渉~

花より団子。春はやっぱり桜と酒である。米ワシントンDCのポトマック公園を彩る桜は1912年に尾崎行雄東京市長が寄贈したのが原点だそうで、紆余曲折を経て今や8000本。米国人にもすっかり花見が定着したという。因みに秋田を代表する角館の桜は400本、干拓の大潟村は3700本、そして秋田駅からすぐの秋田城址・千秋公園でも700本だからスケールではやっぱり米国にかなわない。

秋田市千秋公園の賑わい(昨年4月28日)

古城山から桜の角館を一望する


秋田大学精神科で後期研修をしていた昭和60年代の桜の候、医局長命令で千秋公園へ昼過ぎに同僚と出かけた。夜の医局観桜会の場所取りである。この時期は昼から秋田の呑ん兵衛たちで賑わう名所なので20名超の医局の席確保は絶対必要だ。とはいえ広場の一隅にゴザを敷いてしまえばあとはヒマである。酒類は大量に持参した。ワイン1本目のコルクを抜き、そのまま2人で4、5本も空けたろうか。桜のピンクが青い空に映えていた。

「そろそろ起きろ」という医局長の声で目が覚めた。既に夕闇が迫り、広場を囲む露店の灯りと無数の花見客、それにゴザの上で車座になった御一行も酔いが回って大賑わい。「君たちに場所取り頼んだのは猫にマタタビだった」と彼はみんなで作ったトン汁を勧めてくれた。が、もう冷えている。コンロはガス切れ。夜桜の秋田は寒い。

「テキヤのにいさんに温めてもろたらええ」と身を乗り出したのは大阪大学からやってきた大阪生まれ大阪育ちの教授である。できません、と秋田生まれ秋田育ちで四角四面の医局長は首を横に振った。「なんでや?」「前例がありません。秋田では露店商にそんなことを頼みません」「ほうか。それならわしが交渉したる」と教授は立ち上がった。

一番近いおでんの露店に向かった教授はねじり鉢巻きのテキヤに声をかけた。「もうかりまっか?」「どうだべ」「あの鍋、温めてくれへんか?」とトン汁を指さす。え?とテキヤはひるんだ。「金は出す。なんぼや?」「なんぼ?…おでん買ってければタダで」「どれくらい?」「1000円」「ほなら頼むわ」と教授は私に指示し私は鍋を持ってきた。テキヤは自分の鍋をどかしてガスコンロに乗せた。

トン汁は5分もすると沸騰した。その間にテキヤはおでんを容器に盛り、教授は財布から2000円取り出した。テキヤは「1000円だ」と1枚返す。教授は「これはあんたにチップや。あそこいるうちのおにいさんは」と医局長を指さし「秋田では露店商に鍋を温めてもろたりせえへんいうとる」「俺だって初めてだ。でもチップはいらね」「あんた正直もんや。大坂じゃ考えらへん。いいからとっときなはれ」「おおきに」「あんた関西?」「いや、地元」

こうして私は温かいトン汁とおでんにありついた。旨かった。夜桜の客も減り、後片付けした帰り際、「あのにいさん、ヒマそうや。サクラになったろか」と教授はまた寄った。「もうかりまっか?」テキヤは応えた。「ぼちぼちでんな」 2020/4/30

菜の花ロード11㎞(大潟村)

鳥海山と菜の花

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。