俺の患者に手を出すな、と叫んだ友人がいる。そう叫ぶしかなかった事情はともかく、なかなかドスが利いて、患者思いの名セリフだ。患者を外敵から守るのも医師の使命である。
晩期青年の躁うつ病(双極性障害)。うつのときは借りてきた仔猫のように大人しく、声も小さい。いつも憂うつそうで、仕事の意欲もなく歩く姿もさえない。だが躁に入るや一変、ひと時もじっとしていない。「友あり遠方より来たる、また楽しからずや」とFAXで受診を予告して来る。朝は近所の友人宅で、昼は同業者の店で油を売り、やがて厄介な電話魔に変身。
今回の躁は3月の東日本大震災がきっかけだった。彼だけではない。当時数名の同病者で待合室はにぎわった。彼の場合、根が素直なので主治医には従順、ご近所は寛容、無駄遣いしないよう親が財布のひもを締めている。
だが親族一同は違った。代表がある日、はた迷惑だから入院させてくれと現れた。私の予想では間もなく病状は失速する、入院の必要はないと説明したが、簡単には引き下がらない。あまつさえ主治医を変えてもいいとえらい剣幕である。思わず、俺の患者に手を…と言いかけてやめた。人の思案とはアタマをいため、ハタと膝を打ち、とんでもない結論を出すことだという秋田在住の女流作家・菅禮子氏の言葉を思い出したからである。言いえて妙。親戚らの気分も分からないではない。
秋の気配と共に彼の勢いに陰りが見えてきた。人生、山あり谷ありというが、君は山と谷だけで平地がない? 力なく彼は笑った。うつに入る前兆である。ところが3日後、僕は躁ですとわざわざ言いに来た。小春日和だね。先は長い。付き合うよ…。
合唱 人生山あり
ゴリラ 人生山あり