アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.11

長いお付き合い ~人生、山あり谷あり~

俺の患者に手を出すな、と叫んだ友人がいる。そう叫ぶしかなかった事情はともかく、なかなかドスが利いて、患者思いの名セリフだ。患者を外敵から守るのも医師の使命である。

晩期青年の躁うつ病(双極性障害)。うつのときは借りてきた仔猫のように大人しく、声も小さい。いつも憂うつそうで、仕事の意欲もなく歩く姿もさえない。だが躁に入るや一変、ひと時もじっとしていない。「友あり遠方より来たる、また楽しからずや」とFAXで受診を予告して来る。朝は近所の友人宅で、昼は同業者の店で油を売り、やがて厄介な電話魔に変身。

今回の躁は3月の東日本大震災がきっかけだった。彼だけではない。当時数名の同病者で待合室はにぎわった。彼の場合、根が素直なので主治医には従順、ご近所は寛容、無駄遣いしないよう親が財布のひもを締めている。

だが親族一同は違った。代表がある日、はた迷惑だから入院させてくれと現れた。私の予想では間もなく病状は失速する、入院の必要はないと説明したが、簡単には引き下がらない。あまつさえ主治医を変えてもいいとえらい剣幕である。思わず、俺の患者に手を…と言いかけてやめた。人の思案とはアタマをいため、ハタと膝を打ち、とんでもない結論を出すことだという秋田在住の女流作家・菅禮子氏の言葉を思い出したからである。言いえて妙。親戚らの気分も分からないではない。

秋の気配と共に彼の勢いに陰りが見えてきた。人生、山あり谷ありというが、君は山と谷だけで平地がない? 力なく彼は笑った。うつに入る前兆である。ところが3日後、僕は躁ですとわざわざ言いに来た。小春日和だね。先は長い。付き合うよ…。

合唱 人生山あり

ゴリラ 人生山あり

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。