アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.115

ADHD再考 ~発達障害は障害か、個性か~

ADHD(注意欠如多動症)男性の乱雑な部屋を見たことがあった。私と同じである。彼の言葉「整理整頓はいつでもできる。でも今ではない」も私の心を揺さぶった。机周りの整理を怠り探し物ばかりしている私を見かねた長女が昨年末「私がやってやる」と介入した。大切な品が2、3消え、以降、娘は部屋に入らない。なぜ発達障害系の人は整理ができないのか。今は他にやることがあるからである。ヒマでも掃除などしている場合ではない。

ある小児科医が小学生350人を調査した。要支援生徒は25人7%で、増えていると古参教諭もいう。精神科の受診患者は几帳面で神経質な人が多く、何事も程々の人はまず来ない。発達障害系の人は微妙で、渋々連れて来られるか、対人関係に悩みウツに陥って自ら受診する。

ミスの多いある看護師はたるんでいると上司に何度も叱責され、休職を願い出た。診断書に病状と対応について記載したら「開業医は信用できない」と転医を促され、紹介先の大学病院で教授も診断書を支持したが、結局転職した。逆に工場長に伴われて受診した若者は、ADHD疑いで試験投薬したところ劇的に改善した。薬効に驚いた工場長は職場で発達障害の勉強会を開き、「一度に複数の用件を言いつけない」「指示は具体的に」など対策を立て薬は不要となった。理解は最大の薬である。

スーパーで買い物中に別の用件を思いつき、レジを素通りしたところで御用となった「万引き教師」がいた。裁判所からの照会に一筆認め放免となったが、別の教師は同じ行為を幸い妻に見とがめられ、入店と同時に買い物籠を持つ習慣を身に付け難を免れている。しかし、テストの採点を忘れ通信簿が終業式に間に合わず、校長もお手上げ。他にも保母や営業などADHDには不向きな職種がある。

発達障害の増加はコミュニケーション力が必要なサービス業の増加や過剰なプライバシー尊重が原因といわれる。昔はガキ大将を先頭に子供たちは山河や海で遊び、他集団と対立すると作戦を練って戦ったものだが、体力と社会性を育むこんな機会が今の子らにはまずない。敵味方も不明瞭だ。正常から重症まで境目がないスペクトラム(連続)的個性が増えてきたのも頷ける。

ADHDには医師が天職、研修期間は指導医から命令を受け、終了後は出す側に回るからで、指示と雑務に追われ続ける看護師とは立場が真逆という意見がある。浮草だった学生時代、私は医師の適性を怪しんだ。今も続けていられるのは医師という職位のお陰か。医師会報の編集長も25年間続けているが、世の編集者の多くは私と同じ発達障害系かもしれない。(2021/7/7)

鳥海山7合目「御浜」から南を眺める

入道崎の夏(男鹿半島)

いつも一緒に~落日を眺めるジヨンとチコ~

ハートインレター60

写真撮影:大日向かなえ

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。