ヒマはある、体力もある、金もまずまず、ないのは髪の毛と反省という60代男が近所にいる。柔道の国体選手だった当時、後援会のおじさまたちに度々ご馳走になり、舌と体が肥え糖尿病の下地を作った。彼が主治医にとって厄介なのは、血糖コントロール不良を「オラホの医者は病気を治さないで金ばかり取る」と医師のせいにし反省がないからである。似たもの夫婦の妻も食事療法に関心がない。
2年前、近所に公設民営のスポーツジムができた。飛びついたのはこの男ではなく運動不足の主治医の方である。男を誘ったが「俺は現役時代、嫌になるくらいジムをやった。勘弁してくれ」と乗ってこない。医師は週2回通った。一方の男は検査値が悪化する。親が魚屋だった男は定年後、鮮魚蒐集を趣味とし、市内の漁港で上がる魚をヒマに任せて買いあさり、気に入った魚を超大型冷凍庫に蓄え「時化(しけ)の日も刺身には困らない」とうそぶく。
やむなく主治医は総合病院の糖尿病外来に紹介すると宣告した。いつまでもナアナアの関係ではまずい。「患者より隣人である君とは互いにボケるまで酒を飲みたい。だが今のままだといずれ透析だ」というと彼は禿げ頭を撫で「また脅す。でも糖尿病はコロナに弱いというし、ちょっと試すか」とやっとジム通いに同意した。
ジムは町内から車で5分である。開始した男は昔取った杵柄、週2回、トレッドミル15分、筋トレ15分、玉の汗で禿げ頭を光らせ、やがて体重が少し減り、検査値もいい感じとなった。検査を「医者の金儲け」と腐(くさ)していた男は「血を取ってくれ」と看護師に腕を出すようになった。
ある日、いい鯛が手に入った、一杯やろうと男は主治医を家に招く。死んだ母親の主治医でもあった医師は、実は常連客だった。「糖尿病患者との飲食はいかがなものか」と渋い顔の医師夫人は煮つけと酒を持たせた。「夫は間食をやめました」という男の妻が食卓に並べたのは、鯛の刺身にあら汁、分厚いトンカツ、種々手料理、最後は鯛めしと牛ステーキ。エビとタコとイカもあったか。鯛は男が捌いた。「旨い。でもカロリーが…」医師は嘆息した。
だが半年余で検査値は5年ぶりに正常化。主治医はまた男の家に呼ばれた。刺身やトンカツは同じだったが、男の皿には刻んだキャベツが山盛り。食卓は様変わりである。米は1人1食150gを夫婦と息子で450gという。「親父のジムが始まって俺たちも変わってきた」と息子。病者を孤独にさせない食事療法は普通、なかなかできない。前立腺肥大もある男は「尿の切れも良くなった」と今もジムに通う。(2022/1/21 写真撮影:大日向かなえ)
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