アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.118

ある糖尿病男の話 ~スポーツジムの効用~

ヒマはある、体力もある、金もまずまず、ないのは髪の毛と反省という60代男が近所にいる。柔道の国体選手だった当時、後援会のおじさまたちに度々ご馳走になり、舌と体が肥え糖尿病の下地を作った。彼が主治医にとって厄介なのは、血糖コントロール不良を「オラホの医者は病気を治さないで金ばかり取る」と医師のせいにし反省がないからである。似たもの夫婦の妻も食事療法に関心がない。

2年前、近所に公設民営のスポーツジムができた。飛びついたのはこの男ではなく運動不足の主治医の方である。男を誘ったが「俺は現役時代、嫌になるくらいジムをやった。勘弁してくれ」と乗ってこない。医師は週2回通った。一方の男は検査値が悪化する。親が魚屋だった男は定年後、鮮魚蒐集を趣味とし、市内の漁港で上がる魚をヒマに任せて買いあさり、気に入った魚を超大型冷凍庫に蓄え「時化(しけ)の日も刺身には困らない」とうそぶく。

やむなく主治医は総合病院の糖尿病外来に紹介すると宣告した。いつまでもナアナアの関係ではまずい。「患者より隣人である君とは互いにボケるまで酒を飲みたい。だが今のままだといずれ透析だ」というと彼は禿げ頭を撫で「また脅す。でも糖尿病はコロナに弱いというし、ちょっと試すか」とやっとジム通いに同意した。

ジムは町内から車で5分である。開始した男は昔取った杵柄、週2回、トレッドミル15分、筋トレ15分、玉の汗で禿げ頭を光らせ、やがて体重が少し減り、検査値もいい感じとなった。検査を「医者の金儲け」と腐(くさ)していた男は「血を取ってくれ」と看護師に腕を出すようになった。

ある日、いい鯛が手に入った、一杯やろうと男は主治医を家に招く。死んだ母親の主治医でもあった医師は、実は常連客だった。「糖尿病患者との飲食はいかがなものか」と渋い顔の医師夫人は煮つけと酒を持たせた。「夫は間食をやめました」という男の妻が食卓に並べたのは、鯛の刺身にあら汁、分厚いトンカツ、種々手料理、最後は鯛めしと牛ステーキ。エビとタコとイカもあったか。鯛は男が捌いた。「旨い。でもカロリーが…」医師は嘆息した。

だが半年余で検査値は5年ぶりに正常化。主治医はまた男の家に呼ばれた。刺身やトンカツは同じだったが、男の皿には刻んだキャベツが山盛り。食卓は様変わりである。米は1人1食150gを夫婦と息子で450gという。「親父のジムが始まって俺たちも変わってきた」と息子。病者を孤独にさせない食事療法は普通、なかなかできない。前立腺肥大もある男は「尿の切れも良くなった」と今もジムに通う。(2022/1/21 写真撮影:大日向かなえ)

森吉山山頂のモンスターたち(北秋田市阿仁)


森吉山阿仁スキー場の山頂ゴンドラ基地から歩いてすぐ

秋田内陸線の萱草橋(北秋田市阿仁)

21-12-03 レター64

22-01-14 レター65

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。