アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.12

男鹿のナマハゲ ~ユネスコ登録をめざす~

この季節、秋田の男鹿半島には、鬼の面をかぶり、蓑をまとい、右手に木の包丁、左手に木桶を持ったナマハゲが出没する。これが苦手で結婚を機に半島を出たという女性もいたが、ナマハゲが大声で子や嫁を脅すセリフを聞けば一理ある。

「ウオーッ! この家には泣く子がいねが。ゼンコ(銭)つがう子はいねが」「親のいうこときかねばナマハゲがもらってゆくど!」と子らを脅し、「この家の嫁っこは早起きするが。舅のいうこときぐが!」と来る。昔は嫁や子どもの尻や腕をつねったそうで、これではたまらない。

横手市から男鹿に嫁いだある婆さんは、ナマハゲが来る晩は足袋を3枚も履いて近くの海岸まで逃げ、子は床下に隠した、何でこんな土地に嫁に来のかと悔んだものだという。

かつて当地の医師会報に「ナマハゲと救急医療」と題する一文が載った。ある年の大晦日、意識不明の若者が救急搬送されてきた。付き添いの大人たちはみな酒臭い。診断は急性アルコール中毒。不思議なことに若者の衣服には藁が多数付着していた。経緯を問うが誰も喋らない。命が危ないと医師が脅すと、長老格がやっと重い口を開いた。その日はナマハゲで、若い人がおらず高校生に面をかぶらせた。飲んだ経験もなかったのに各家々でお酒を頂き…。若者が藁だらけだった謎は氷解。

ナマハゲが訪れた家の主人は両腕を広げて子や嫁を背中に隠し、「家の子はあぐだれね。ゼンコも使わね。嫁っこも早起きしてる。いっぱい飲んでごめ(御免)してけれ」とかばう。ナマハゲは、「山の上から見てるど。いつでも出てくるがら」と盃を受け、お面をちょっと挙げ、垂れ下がったヒゲの間から酒をすする。画家・岡本太郎(1911~1996)は「日本再発見―芸術の風土記」に、このユーモラスで微笑ましい光景を面白おかしく書いている。

今年は見送られたが、男鹿のナマハゲはユネスコ世界無形文化遺産登録に挑戦中だ。急性アル中を心配しなくていい若者と嫁っこがいっぱいいればいいのだが、人手不足で文字通り「遺産」になりかねない状況である。

ナマハゲ観光ポスター

秋田駅のナマハゲ

男鹿半島より鳥海山を望む

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。