アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.122

暑い夏とコロナ ~土崎港祭り2022~

7月20、21日、秋田市土崎地区で3年ぶりに港祭りが開催された。土崎駅近くの神明社の例祭、曳山行事である。ここ2年はコロナで中止していた。江戸文化が花開いた元禄に続く宝永元年(1704)に、隆盛を迎えていた北前船の船主たちが神輿を寄進し、翌年から渡御が始まったとされる。当時は北東北で地震が頻発し、南海トラフ地震の1つ富士山大噴火は1707年だった。


土崎は私の住む大久保のJR駅から秋田駅へ3つ目の駅で、男鹿潟上南秋医師会の会議で利用するホテルや私の床屋がある。大学同期の古谷の実家もあり、学生の頃、同級で政府の新型コロナ感染対策分科会会長をしている尾身茂らとこの祭りに参加し、曳山を引く綱に振り回されているうちに尾身は両足の親指の爪を、私も右足の爪をはがした。2日目の夜、興奮の坩堝と化す「戻り曳山」での出来事である。そんなことを思い出しながら初日午後、土崎駅に降りた。懐かしい囃子の音、曳山の車輪に塗りたくる油の匂い。ああ、祭りが戻ってきた…。

戻り曳山は「音頭上げ」で始まる

正面の人形は歴史の一場面(角館の曳山は歌舞伎の一場から)

見返し「だじゃぐこぎ世界平和のゆめ返せ!」


とはいえ、その日のコロナ感染者数は都内で新記録の2万5千人、秋田も830人と記録を更新していた。第6波が話題になり始めた6月からお祭り実行委員会は決行が中止かでもめ、私の床屋によれば、囃子を録音テープで流し、曳山を引く曳子らのジョヤサ!の掛け声は禁止にしようとか、露店は酒類禁止か、それくらいなら今年も中止にしろとか侃侃諤諤だった。そんな中でのこの祭りは国の重要無形民俗文化財であり、2016年にはユネスコ無形文化遺産にも指定されている。クラスター発生ではお話にならない。曳山に群がる若者たちが実行委の定めた自主規制を守るとは到底思えない。と、慎重なおじ様たちは危惧する。

だがしかし、猛暑の中で23丁内から出ていた曳山につく若者らは、驚くまいことかほとんどがマスクをし、浴衣半纏でジョヤサの声も勇ましく汗だくで曳山を引き回していた。コロナを心配するカミさんに呆れられながら翌日も終業後、今度は撮影を頼んで娘と出かけた。23台の曳山は相染町に順番通りずらりと並ぶ。曳山の背後に立つ「見返し」が愉快だ。その文言のコンクールがあり、優秀賞はプーチン人形の傍に「だじゃくごぎ(横柄)世界平和のゆめ返せ」(ゆめは秋田県知事がプーチンに贈った秋田犬の名)であるが、私は「おらほだば(我々の方は)死亡原因トップガン(癌)」が気に入った。

4日後の夕、市役所で医療福祉関係の会議があった。座長の私が「港祭りから4日になるがコロナは増えていない。影響なかったね」というと他の委員らは「先生、甘い。来週から竿灯が始まる。県も検査を控えているに違いない」「でもそろそろコロナの疾病分類を2類から5類に下げないとなあ」などと会は終了。そして5日目の本日、秋田はいきなり1280人の新記録。私は何ともない。2022/7/26

「おらほだば死亡原因トップガン」秋田県ですから…

戻り曳山を前にくつろぐ(右は写真班)

22-06-24 レター70

22-07-26 レター71

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。