アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.127

輪番制  ~自治会と役員のお仕事~

今年で終了の住民総参加型スポーツ企画『チャレンジデー』の5月31日朝、わが自治会館の駐車場に住民25名が集まった。絶好のラジオ体操日和。6時半、ラジオから「新しい朝が来た~」と流れる筈が突然「北朝鮮がミサイル発射、北朝鮮がミサイル…」と緊急ニュースである。ミサイル避難訓練は昨年ここで行った。地下室や頑丈な建物が付近にない場合は家から出ないことと消防署員から教わっている。だが今日のミサイルは沖縄方面とラジオは言う。仕方がないので私たちは声のピアノ伴奏でラジオ体操第1を始めた。

行きつけの床屋が2年前「うちの町内、どうしても会長が決まらないので自治会を解散することになりました」という。面白い。散髪の度に聞く後日談は以下の如し。市広報の配布は、ある住民に自治会が年3万円で委託していたのを市が同額で継続委託。自治会助成金の消滅で市の懐は痛まない。赤い羽根や緑の羽根、社協、日赤、交通安全協会など自治会が代行していた寄付集めは各団体に返上。運動会や夏祭りなど各種行事は廃止。ごみ集積所は隣近所やマンション毎の管理なので自治会は関係ない…。

昨年3月、6年間も務めたわが自治会長がついに退任した。床屋の町内同様、喜んで会長になる人物はいない。そこで会長は、過去14年連続で副会長だった私を後任に指名。覚悟していた私は総会で2つの条件を出した。今後は任期2年を1年へ、会長も含む役員を輪番制へ移行するー。かくて昨年度は市役所の下請け的業務や会議は積極的にさぼり、各種寄付の額と手続きを大胆に見直し、コロナ禍で行事が減り余っていた金で自治会館の泥んこ駐車場を舗装、どこの町内もやっていない津波・ミサイル避難訓練、防災器具取り扱い訓練を2回。が、1年ぽっきりの会長、アイデアは出すが段取りと実施は副会長ら役員任せ、本人はあまり汗を流していない。

今年3月に私は会長を卒業、昔ながらの談合で次期会長を推薦し総会で了承された。重い宿題を背負った新会長は就任の挨拶で来年度からの役員選出方法を説明した。町内全9班を4グループに再編し、各グループは1年毎に話し合いやくじ引きで会長など役員8名を決め、その8名は今年度の諸会議にオブザーバー参加する。昨年は「まじ?」といった雰囲気だった総会の場に当惑の色が広がった。

5月初旬、最初のグループ25戸から12名が出席して来年度の役員選びである。もめた。仕事が忙しくて町内のことなど絶対に無理、そんな暇があったら釣りに行くという者もいる。互いに警戒し沈黙。ついに釣り男が「葬式みたいで嫌だな。いいよ、俺が何か簡単な役をやる」と言い出す。「私にお手伝いできることがあれば」と元教師。引きこもりではないかと噂のあった人も手を上げ、今日欠席した息子に何かやらせますと商店の社長がいい、隣の町内の役員で母親が施設にいる息子が「会長以外なら私も」という。だがその会長が決まらない。

月末に2回目の会合が開かれた。定年退職後で暇だろうと思われていた自治会の元会計は内々の要請を拒否していたが、「このシステムだと4年後にまた役員が回ってくる。自分たち夫婦は4、5年後に東京へ引っ越す予定なので会長を引き受けるなら来年しかない。私でよければ」とついに会長が決定。英国式「影の内閣」シャドーキャビネット誕生である。人材発掘となった初の試み、8名の表情は心なしか自信に満ちていた。やればできるのだ!

十ノ瀬藤の郷(秋田県大館市)

鳥海山とルピナス(秋田県)

鳥海山と熱気球(横手市)

最後のチャレンジディ(潟上市上町)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。