アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.128

熱中症の前と後 ~懲りない6回目の卯年男~

山の日の8月11日も秋田は朝から33度と連日の猛暑。毎年17日のサンバパレードの演奏リハを兼ねたバーベキューを午後4時まで5時間もやった。熟睡していた翌12日朝6時、近所のスポーツジム仲間の家族から彼の様子が変だと電話があり駆け付けた。安らかな寝顔で心肺停止していた。救急隊と警察に対応し、検視の結果は脳出血。彼はニアミス118回に登場している。ここ2年は血糖値も血圧もほぼ正常範囲だった。前夜もいつもと変りなく鯛の刺身で晩酌をやり9時前に寝たという。享年68歳。

13日午前は弔辞の準備。昼過ぎに私は実家へ向かい、途中で菩提寺と叔母宅に寄り、じりじり肌が焼ける午後4時に実家の墓参を済ませ弟とビールを始めた。ところが30分もしないうちに床がぐるぐる回る。兄さん、顔色が悪いと心配する弟夫婦に見送られすぐ撤退。妻が運転する車の中で脈をとると微弱で、1時間後に帰宅したが回転性めまいは続く。普段の血圧は上110~120だが180である。妻が常用する降圧剤を飲んだ途端に吐いた。横たわると何ともない。友は1人で逝くのが嫌で私を道連れにしようとしたのではなく、熱中症だったか―。

14日も朝からふらつく。吐気はないが食えず、寝ていると楽なので志賀直哉の『城崎にて』を読む。屋根に転がる蜂の死骸、首を串刺しにされ小川に投げ込まれたネズミ、主人公が投げた石があたって死んだイモリ…気が滅入る。30年程前の夏に脱水を経験した。炎天下のコートで午後3時間テニスをしてシャワーを浴びていたら俄かに四肢が突っ張り全身のふるえがきた。水分摂取は充分でも脱水症状をきたす例は少なくない。冷蔵庫を開けた。水の隣にビールがある。水の水分は100%でビールは95%だ。差は小さい。ビールで症状は治まった。後日、救急専門医にこの話をしたら「脱水時は血流の改善も大事。利尿作用のあるビールは正解かもしれない。一般の人には勧められないけど」と笑った。

15日は寺でジム友の葬儀。この日も太陽がぎらぎら照り付け参列者は悲しみと猛暑にあえいだ。めまいもなく私の弔辞は終わり、葬儀もお開きとなった。が、弔辞を読んだ人は直来出席が当地の風習だが声がかからない。玄関で「弔辞、とても愉快でした」と住職にいわれて帰宅。程なく故人の隣親戚として初七日法要にも出席した男が拙宅に現れた。「飲み仲間の葬式で一杯やらないのは寂しい」といい故人を偲び2人でしんみり献杯。中公文庫『日本の歴史』第1巻に「(倭国では)喪主、哭泣シ他人就キテ歌舞飲酒ス」遺族は慟哭し他人は歌や踊りで飲食すると魏志倭人伝に書いているという。中国や朝鮮の葬儀では泣き女が悲しみを派手に演出し、わが国ではハレだけでなくケでも寄り集い飲み騒ぐ―。

17日午後4時、またもや炎天下の八郎潟町商店街で横浜サウーヂのダンサーらと小1時間パレード。熱中症の後遺症か時々リズムを外し、気がつくと楽器アゴゴを逆に持っていた。ステージでやっと勘が戻り小4のヒナちゃんと熱演。よせばいいのに翌日の一日市盆踊りでダンサーらと組み2等賞。26日は大曲の花火競技会、翌日、誕生日…。〈2023/8/27〉

サンバ演奏隊BBQ(8月11日)

ステージ演奏(17日 秋田県八郎潟町)

一日市盆踊り(18日)

大曲の花火ポスター

お誕生日パーティ

おめでたいのか?

秋田県三種町のサンドクラフト(17日)

モアイ像とジオンとチコ

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。